第67話
古都子は、日が沈みきる前の庭でリュウガを待っていた。
東部領の行政庁舎には、表の広間とは別に小さな中庭がある。石灯籠、低い松、細い水路。人目は完全には遮れないが、声を潜めれば会話の中身までは届かない。未来に関わる話をするには、広すぎず、狭すぎない場所だった。
リュウガが来た時、彼は少しだけ疲れた顔をしていた。
公的な宣言を受けた後だ。当然だろう。剣を振るうより、言葉を受ける方が疲れることもある。古都子はその疲労の中に、以前とは違う芯を見た。
「お呼び立てして、申し訳ありません」
「構わない。古都子が密談と言うなら、必要な話なんだろう」
その呼び方に、古都子は一瞬だけ息を詰めた。
以前なら、リュウガは距離を置いていた。兄の死に関わった女として、自分を見ないようにしていた。今も許されたとは思っていない。だが、彼は逃げずに名を呼んだ。
それだけで、罪が軽くなるわけではない。
それでも、歩けるだけの隙間ができる。
「はい。必要な話です。ただ、信じるかどうかは、リュウガ様に委ねます」
「未来の話か」
「未来に触れる話です」
古都子は袖の中で指を握った。
未来は、言葉にした瞬間に形を変える。誰に伝えるか、どこまで伝えるか、どの言葉を選ぶか。ほんの少しの差で、枝は違う方向へ伸びる。だから古都子は、普段の占いでも曖昧に言う。逃げではなく、余白を残すために。
けれど、今は曖昧にしすぎてはいけない。
かつて龍真へ見せた未来は、言葉にした瞬間から現実へ近づき始めた。だから古都子は、同じことを繰り返すのが怖い。伝えなければ救えないことがあり、伝えたからこそ失われるものもある。その二つの間で、占術を扱う者はいつも言葉を選ばされる。
今日選ぶ言葉は、犠牲へ向かう言葉ではなく、生きている者を生かすための言葉でなければならない。
「サニー様を、支えてください」
リュウガの表情が動いた。
「サニーを?」
「はい」
「あの人を支える、というのは、ずいぶん難しい言い方だな。俺が支えられるような相手には見えない」
古都子は小さく頷いた。
「私にも、そう見えます。強く、速く、何があっても折れないように見える。けれど、折れないものが壊れないとは限りません」
リュウガは黙った。
サニーは、戦場では誰よりも頼もしい。代表戦の間も、彼女がいるだけで異常が広がりきらないという確信があった。だが、その強さがどこから来るのか、リュウガは知らない。知っている者も、きっと多くはない。
古都子も、すべてを知っているわけではなかった。
ただ、視える断片がある。
銀の光。
倒れる身体。
それでも前へ出ようとする誰か。
そこに手を伸ばせる者が、今この東部領で生まれつつある。
断片はいつも不親切だ。
名前を教えてくれるわけではない。正しい手順を並べてくれるわけでもない。ただ痛みの強い場面だけを切り取り、そこへ至る道筋を隠す。だから古都子は、断片を断定には使わない。けれど、何もしない理由にもできなかった。
「詳しくは言えません」
古都子は言った。
「言えば、かえって悪い方向へ流れるかもしれない。ただ、いつかサニー様が、強いからこそ助けを求められない場所へ立つ時が来ます。その時、リュウガ様には側にいてほしい」
「なぜ俺なんだ」
「あなたが、自分の弱さを知ったからです」
リュウガの眉がわずかに寄る。
古都子は続けた。
「強さだけを信じる人は、強い人の痛みに気づけません。弱さだけに沈む人は、手を伸ばす前に諦めます。リュウガ様は、強くありたいと願いながら、自分の弱さを知った。だから、手を伸ばせるかもしれない」
言い過ぎたかもしれない。
古都子は自分の言葉を内側で測った。だが、リュウガは怒らなかった。むしろ、ゆっくり息を吐いた。
「兄上のことも、そう見えたのか」
「龍真様は、私より先に見えていました」
古都子は墓前で言えなかったことを、ここで少しだけ口にした。
「自分が消えた後に残る人たちのことを。だから、あの方は選べたのだと思います」
「俺に同じことをしろと言っているわけじゃないな」
「違います」
古都子はすぐ否定した。
「犠牲を美談にするつもりはありません。私はもう、誰かに死んでほしいとは思いたくない」
その言葉は、自分に向けたものでもあった。
龍真が選んだ。そう何度言っても、古都子が未来を見せた事実は消えない。あの選択の場へ龍真を連れていったのは自分だ。だからこそ、次に選ばせる時は、生きる方へ押したい。
「支えるとは、代わりに死ぬことではありません」
古都子はリュウガを見た。
「生きている人を、生きている場所へ引き戻すことです」
リュウガは長く沈黙した。
庭の水音が細く響く。遠くで誰かの足音が通り過ぎ、すぐに消えた。
「分かった」
やがて、リュウガは言った。
「何が起きるかは知らない。サニーが俺の助けを必要とするとも思えない。だが、古都子がそう言うなら、覚えておく」
「ありがとうございます」
「ただし」
リュウガは少しだけ表情を引き締めた。
「俺は東部領を背負う。何もかも投げ出して誰か一人を助けに行ける立場ではなくなる」
「それでいいのです」
古都子は頷いた。
「東部領を背負うあなたが支えるから、意味がある」
リュウガはその言葉をしばらく噛みしめていた。
古都子は、これ以上は言わなかった。未来の枝を言葉で縛りすぎてはいけない。リュウガが覚えていればいい。いつかその時、彼が自分の判断で動ければいい。
それが未来を託すということなのだろう。
答えを渡すのではない。命令するのでもない。ただ、必要な時に思い出せる言葉を預ける。龍真が古都子に残した言葉も、きっとそういうものだった。救いにはならない。罪も消えない。それでも、立ち止まりそうな足を一度だけ前へ出させる。
密談は短く終わった。
リュウガが去る背中を、古都子は見送る。彼はまだ若い。背負うには重すぎるものを、いくつも抱え始めている。けれど、その歩き方は墓前で見た時より確かだった。
「龍真様」
古都子は誰にも聞こえない声で呟いた。
「彼は、歩きます」
水音が返事のように揺れる。
古都子は袖を握り、もう一度だけ未来の断片へ意識を伸ばしかけた。
すぐにやめた。
今は見る時ではない。
今は、託した言葉が彼の中で眠るのを待つ時だった。
占えば、何かが分かるかもしれない。
けれど、分かったところで古都子がすべてを選べるわけではない。選ぶのはリュウガであり、サニーであり、まだここにいない誰かだ。古都子にできることは、見えたものをすべて支配しようとするのではなく、必要な場所へ必要な言葉だけを置くことだった。
龍真の時には、それができなかった。
今度は、違う形で未来へ触れたい。
古都子は中庭の水面へ目を落とした。揺れる水は、先を映さない。ただ、今そこにある空だけを映している。
それでいい。
今はそれでいいのだと、自分に言い聞かせた。
見えないまま信じることも、きっと必要なのだ。
古都子は袖の中で指をほどき、ようやく一つ息を吐いた。
今日だけは、占い師ではなく、過去を抱えた一人として夜を迎えたかった。




