EX41
アイギスは、謝罪文の一行目で筆を止めていた。
東部領の客室は静かだった。窓の外では夜の風が瓦を撫で、遠くの庭で水音が細く続いている。東部領の行政担当から渡された書式は、王都で使うものとは少し違っていた。紙の質、余白の取り方、印を押す位置。どれも整っていて、だからこそ、書き損じが許されないように見える。
宛先は東部領評議会。
内容は、代表戦への介入に関する謝罪。
書くべきことは分かっている。
アイギス・アージェントは、東部領の領民ではない。代表戦の参加資格を持たない。見学者として会場にいたにもかかわらず、戦闘中の場へ降り、盾を展開し、候補者であるリュウガと共闘した。
規則上は、明確な越権だった。
だが、先に龍真の遺骨を利用した存在を代表戦へ参加させたのは東部領側である。あの場を試合として保てなくしたのは、アイギスではない。そう考えれば、謝罪文はほとんど形だけのものだった。
それでも、形だけだから雑に扱ってよいわけではない。
東部領にとって、代表戦は単なる試合ではない。次代を選び、武を示し、領民に納得を与える儀式でもある。そこへ他領の者が踏み込んだ。その事実だけは、軽くできなかった。
アイギスは筆を取り直す。
「このたび、東部領次期代表選定に関わる武闘部門において、見学者の立場でありながら会場内へ介入した件につき」
書きながら、盾を割り込ませた瞬間の衝撃を思い出す。
黒い龍真の刃は重かった。リュウガの目は、一瞬、現在ではなく過去を見ていた。あのままなら死んでいたかもしれない。死ななくても、何かが折れていた。
なら、同じ状況になれば、アイギスはまた降りる。
その確信があるからこそ、謝罪は難しい。
反省していないわけではない。だが、選択を後悔しているわけでもない。謝るべきなのは、東部領の儀式を乱したこと。謝れないのは、リュウガの前へ盾を置いたこと。
その二つを混ぜると、言葉が嘘になる。
机の端に置いていた通信端末が、小さく震えた。
東部領の使者からではない。王都からの私信だ。差出人の名を見て、アイギスは背筋を伸ばした。
ステラ・アージェント。
母からの短信だった。
端末に表示された文字は短く、いつも通り整っている。
「あなたが無事であると聞き、安堵しています。盾を置くべき場所を誤らなかったなら、まずはそれで十分です。ただし、他領の儀式へ介入した事実は消えません。謝罪すべきことと、守るべきだったものを混同しないように。サニーにも迷惑をかけましたね。戻ったら、改めて話を聞かせてください」
アイギスは文面を二度読んだ。
母らしい言葉だった。厳しく、短く、必要な分だけ温かい。盾を置くべき場所を誤らなかったなら、まずはそれで十分。その一文だけで、胸の奥が少し軽くなる。
だが、最後の一文に小さな引っかかりがあった。
サニーにも迷惑をかけましたね。
いつもの母なら、もう少し違う書き方をしたかもしれない。サニーへよろしく、とか、サニーに礼を、とか。その程度の違和感だった。忙しさのせいかもしれない。北部領や東部領の対応で、王都側も慌ただしいのだろう。
アイギスはそう処理した。
今は謝罪文を書かなければならない。
リュウガのことも気になる。彼は次代として認められた。だが、それで傷が消えるわけではない。兄の姿をしたものを止めたばかりの少年が、明日から東部領の次代として見られる。その重さを、アイギスは少しだけ知ってしまった。
盾は、どこに置くべきなのか。
端末を机の端へ置き、アイギスは続きを書いた。
「東部領の伝統と手続きを重んじる場において、外部の者である私が武力を行使したことは、軽視されるべきではありません」
ここまでは事実だ。
次に、理由を書くべきか迷った。
リュウガを守るため。死者を代表として扱う異常を止めるため。東部領の次代が、兄の姿をしたものに殺されるのを防ぐため。
どれも本当だが、謝罪文に感情を書きすぎれば、言い訳になる。
アイギスは少し考え、文を整えた。
「ただし、当該状況は通常の武闘部門の進行とは著しく異なり、候補者および観客に対する危険が現実化していたものと判断しました」
これでいい。
謝罪と判断の記録。その両方が必要だった。
東部領側にも失態はある。あの存在を通した手続き、伯耀を止められなかった評議会、古都子の棄権枠を利用された管理の甘さ。だが、それを責める文書ではない。謝罪文は、こちらの行動を正しく置くためのものだ。
筆を進めるうちに、アイギスの中で会場の光景が少しずつ整理されていく。
盾を置いた。
リュウガが立て直した。
龍真の身体が止まった。
サニーが石を壊した。
そのどれもが、誰か一人の勝利ではなかった。だからこそ、アイギスは東部領のことを考えている。リュウガがこれから背負う場所。古都子が罪を抱えたまま残る場所。龍真が葬り直される場所。
自分は、そこへどれだけ関われるのだろう。
考えかけて、筆先が止まる。
母からの短信が、伏せた端末の向こう側にある。
戻ったら、改めて話を聞かせてください。
その言葉の向こうに、母の疲れがあるのかもしれない。そう思いかけて、アイギスは視線を謝罪文へ戻した。未だ庇護下にある娘が、母の心配を先にするのはどこか違う気がした。母は強く、正しく、いつも自分の少し先にいる。だから今は、母に心配をかけた自分の行動を整えるべきだった。
今のアイギスの目は、東部領とリュウガへ向いている。
端末の向こうに残った小さな引っかかりを置いたまま、アイギスは謝罪文の最後へ筆を進めた。
「以上の経緯を踏まえ、私の行動が貴領の儀式および手続きに混乱を与えたことを、ここに深くお詫び申し上げます」
書き終えると、ようやく息が抜けた。
形だけの謝罪文。
だが、形だけのものにも意味はある。盾と同じだ。正しい場所に置かれた形は、時に人を立たせる。
アイギスは母の短信を丁寧に畳み、謝罪文とは別の封筒へしまった。
先に片づけるべきものがある。
そう思いながら、彼女はまだ、母の短い言葉に潜むかすかな翳りへ手を伸ばさなかった。




