第65話
桐子の訓練は、歩くところからやり直しになった。
徹心は優しくなかった。寝台から起き上がれるようになった翌日には、桐子を訓練場の端へ連れ出した。もちろん走らせるわけではない。槍を握らせるわけでもない。ただ立たせ、歩かせ、呼吸を数えさせる。それだけで腹の奥が熱くなり、背中に嫌な汗が滲んだ。
「押すな」
徹心が言う。
桐子は息を止めかけていたことに気づき、ゆっくり吐いた。
「流そうとするな。整えようとするな。まず気づけ」
「気づくだけで、何か変わるんですか」
「変わらん」
徹心は即答した。
「変えようとする前に気づけと言っている」
訓練場の隅には、リリーが小型の記録板を並べている。興味で目が輝いているが、徹心に近づきすぎるなと釘を刺されたため、一定の距離から観察していた。彼女は時折、魔力側の変化だけを淡々と告げる。
「外部魔力の流入は安定。桐子の固有魔力も乱れていません。ただ、腹部周辺で魔力の流れが薄く撓んでいます」
「そこで手を出すな」
徹心が桐子に言う。
「今まさに出そうとしてました」
「だから言っている」
桐子は唇を結んだ。
自分の身体のことなのに、自分の身体へ触ってはいけない。そんな感覚だった。魔力は外から来る。魔界の空気に混じり、身体を通って、また外へ抜ける。気は内側にある。黒峰流で鍛えた身体の奥、呼吸や重心や筋肉のさらに奥に沈んでいる。
その二つを分けようとすれば、境界で裂ける。
混ぜようとすれば、互いに噛み合わず潰れる。
なら、共存させるしかない。
言葉にすれば簡単だった。
身体でやると、足の指一本まで難しい。
最初の数日は、立っているだけで終わった。次の数日は、歩くだけで終わった。槍を出そうとしたら徹心に止められた。黒峰流の型に入ろうとしたら、同じく止められた。
「お前はすぐ戦おうとする」
「戦うために習ってますから」
「だから倒れた」
返す言葉がない。
桐子は黙って足を置き直した。
クロエは毎日様子を見に来た。領主としての仕事があるため長居はしないが、訓練場の端で立ち止まり、桐子が倒れていないことを確認してから去っていく。アイギスは東部領にいる。サニーもいない。いつもの特別クラスの空気から、一部だけ切り取られたような日々だった。
ローザはあまり口を出さなかった。ただ、食事と睡眠だけは厳しく管理した。徹心の訓練が終わると、桐子はほとんど動けなくなる。汗をかき、食べ、眠り、起きる。身体を作り直しているような感覚があった。
リリーは途中から、観測記録とは別に桐子向けの説明書きを作り始めた。魔力がどこから入って、どこで乱れ、どこで外へ抜けるのか。図は分かりやすいが、余白には桐子が理解できない数式や波形のメモがびっしり書き込まれている。
「読ませる気あります?」
「あるよ。理解できる部分だけ読めばいい」
「残りは」
「未来の君か、別の誰かが読む」
そう言われると、雑には扱えなかった。桐子は分かるところだけ線を引き、分からないところには正直に印をつけた。分からないと認めることも、今回の訓練の一部だった。
一週間が過ぎた頃、徹心は短い棒を渡した。
「握れ」
以前に渡されたものと同じ、黒峰流の処置にも使う棒だった。
桐子は握る。
「落とすな。だが、握り潰すな」
指に力を入れると、気が集まる。集めすぎると、魔力の流れが引っかかる。逆に力を抜きすぎると、棒が落ちる。桐子は何度も失敗した。棒は床に転がり、そのたび徹心に拾えと言われる。
リリーは楽しそうに記録していた。
「面白いですね。魔力側から見ると、握力そのものより、意識が一点に集中した瞬間に波形が乱れます。物理動作が原因というより、意識の置き方が問題です」
「人の失敗を面白がらないでください」
「研究者にそれを言うのは、魚に泳ぐなと言うようなものだよ」
桐子は軽く睨んだが、リリーは悪びれなかった。
徹心が棒で桐子の肩を軽く叩く。
「そちらを見るな。言われた情報だけ使え」
「はい」
「魔力は外だ。気は内だ。だが、お前の身体は一つだ。一つの器の中で、二つの理屈が喧嘩している。喧嘩を止めようとするな。喧嘩する場所を間違えさせるな」
「場所」
「そうだ」
桐子は棒を握ったまま、息を吐いた。
喧嘩を止めるのではない。
喧嘩する場所を間違えさせない。
魔力が通る道を邪魔しない。気を押し込まない。どちらかを優先しようとしない。水と油のように完全に分かれるわけではないが、同じ器の中で隣り合うことはできる。
桐子は指の力を少しだけ抜いた。
棒は落ちない。
気が集まりかける。
魔力の流れが揺れる。
そこで、押さない。
揺れたことに気づき、そのまま置く。
ほんの数秒、何も起きなかった。
倒れなかった。
それだけのことに、桐子は全身から力が抜けそうになった。
「今の」
「続けろ」
徹心は褒めず、桐子は続けた。
次は失敗し、棒が床に落ちる。
拾って、また握る。
数日後には、十秒になった。さらに数日後には、歩きながらでも崩れない瞬間が増えた。槍はまだ出さない。黒峰流の型にも入らない。戦いに使える段階ではない。使おうとすれば、また身体が壊れる。
それでも、感覚はあった。
自分の内側にあるものを、怖がって遠ざけるだけではなく、無理やり押さえつけるだけでもなく、そこにあるものとして置いておく感覚。
夏季休暇の残りが少なくなった頃、桐子は訓練場の中央で立っていた。
徹心は向かいに立ち、リリーは記録板を抱えている。クロエは少し離れた場所で見ていた。桐子は棒を握り、ゆっくり一歩踏み出す。
気が動き、魔力が揺れる。
けれど、どちらも暴れない。
二歩目、三歩目。
汗が背中を流れ、呼吸は荒い。だが、倒れない。
徹心がようやく頷いた。
「理屈ではなく、身体が入口を覚え始めたな」
「使えますか」
「使うな」
即答だったので、桐子は苦笑した。
「はい」
まだ先だ。
けれど、道は見えた。
真希を刺した銀の暴発も、魔界へ来て得た魔力も、黒峰で覚えた気も、どれかを捨てれば済むものではない。全部、自分の身体の中にある。
なら、抱えて歩くしかない。
桐子は棒を握ったまま、もう一歩だけ前へ進んだ。
徹心は止めなかった。
リリーも余計な言葉を挟まなかった。
クロエだけが、小さく息を吐いたのが分かった。安堵か、不安か、桐子にはまだ判別できない。ただ、その息が聞こえる距離にクロエがいることは分かった。
自分の失敗は、自分だけのものではなかった。
倒れれば、誰かが走る。血を吐けば、誰かが手を伸ばす。だからこそ、次に踏み込む時は、何も知らせず一人でやってはいけない。
桐子はそれを、ようやく身体で理解し始めていた。
失敗をなかったことにはできない。
だからこそ、次に同じ場所へ立つ時は、今度こそ誰かの声が届く自分でいなければならない。
それは強くなることとは少し違う。
けれど、強くなるために必要なことだった。
桐子は棒を握る手を緩め、落とさないぎりぎりの力だけを残す。自分の中にあるものを全部従わせるのではなく、同じ身体の中に置く。
その感覚を、忘れないようにした。




