第64話
龍真の墓は、明らかに直されたばかりだった。
リュウガはその前で足を止めた。石の継ぎ目が新しい。土もまだ柔らかい。以前なら気づかなかっただろう細かな乱れが、今はやけに目に入る。一度暴かれ、調べられ、葬り直された痕跡だった。
東部領の空は高い。
会場の熱も、観客の声も、伯耀の笑い声もここまでは届かない。墓地の周囲には低い木々が並び、風が通るたびに葉が乾いた音を立てる。その音の中で、古都子は白と黒に分かれた袖を静かに揃えた。
「来てくださって、ありがとうございます」
古都子の声は、占い師KOTOKOとして店にいた時よりずっと低かった。
リュウガは墓を見たまま答える。
「兄上の墓だ。来るに決まっている」
「そうですね」
古都子は頷いた。
その後に沈黙が落ちた。謝罪の言葉なら、すでに何度も聞いた気がする。けれどリュウガが欲しかったのは謝罪ではない。なぜ兄が死ななければならなかったのか。なぜ自分は、兄の死をずっと自分のせいだと思い続けたのか。
古都子は墓前に膝をつき、花を置いた。
「龍真様は、私が視たものを聞いてくださいました」
リュウガの指がわずかに動く。
視たもの。
一族に伝わる占術。東部領で忌子と呼ばれる者が扱う、忌避される力。古都子はそれを未来と呼ばず、ただ「視たもの」と言った。
彼女の尾は一本だけだった。
店で見た時もそうだったが、今は飾りとしての美しさより、隠しているものの多さを感じさせる。東部領では、力が強いほど敬われるとは限らない。むしろ、力の種類によっては忌まれ、距離を置かれる。古都子が占い師として名を売っているのも、忌子としてではなく、よく当たる相談相手としてなら人々が受け入れやすいからなのだろう。
リュウガはそのことに、今さら気づいた。
自分は兄の死ばかり見て、彼女がどんな場所で生きてきたかを見ていなかった。
「私は魔界の滅びを視ました。細部まで確かなものではありません。けれど、いくつもの枝が同じ場所へ流れ込むように、滅びだけが濃く見えた」
風が止まる。
「それを避けるために、龍真様は自分を使うことを選びました」
リュウガは息を忘れた。
怒りが先に来ると思っていた。だが、来たのは空白だった。兄が選んだ。古都子が命じたのではなく、伯耀に殺されたのでもなく、少なくとも最初の選択は兄自身のものだった。
「襲撃は」
「龍真様と私が主導しました」
古都子は逃げなかった。
「詳細を語れば、きっと言い訳になります。あの場で何がどう動いたかよりも、リュウガ様に知っていただくべきことは一つです。龍真様は、あなたを守るためだけに死んだのではありません。魔界が滅びへ向かわない道を作るために、死ぬことを選びました」
「兄上が」
声が掠れた。
「俺を庇ったのは」
「事実です」
古都子は言った。
「ですが、あなたのせいではありません。龍真様は、あなたが生きる道を選んだ。東部領が続く道を選んだ。その選択の中で、あなたを庇った」
リュウガは墓石へ手を伸ばした。
冷たい。
新しい傷が指先に触れる。
幼い頃から、兄は何でも先にできた。武器の扱いも、書の読み方も、人前での振る舞いも。リュウガはその背中を追い、追いつけず、兄が死んだ後は兄の代わりにならなければならないと思った。
兄が死んだのは自分のせいだと、何度も思った。
あの時、自分が狙われなければ。
あの時、自分がもっと強ければ。
あの時、兄の足を引っ張らなければ。
だが、兄はその未来ごと選んでいた。
リュウガが背負っていた罪は、兄が置いていった選択の一部だった。軽くなるわけではない。むしろ重さの形が変わる。自分のせいだと嘆いていればよかったものが、兄の意志だったと知った瞬間、歩かなければならない道になる。
思い返せば、龍真はいつもそうだった。
リュウガが転べば、先に手を差し出す。けれど立ち上がるのを手伝いすぎない。稽古で負ければ笑い、次にどこを直せばいいかだけを告げる。兄は優しかったが、甘くはなかった。自分の後ろへ隠れろとは言わなかった。
その兄が、自分を生かす選択をした。
なら、リュウガがすべきことは、庇われた場所で泣き続けることではない。
生かされた先で、立つことだ。
「古都子」
リュウガは初めて、逃げずにその名を呼んだ。
「はい」
「俺は、あなたを許せるか分からない」
「当然です」
古都子は静かに答えた。
「私も、私を許せていません」
「それでも、兄上が選んだなら」
言葉が胸の奥で軋む。
それでも言わなければならない。
「それが兄上の選択で、最良の未来へ繋がる道なら、どんなに辛くても歩んでみせる」
古都子の肩が震えた。
泣いているのかもしれない。けれどリュウガは顔を覗き込まなかった。人には、見られたくない涙がある。自分にもある。
「龍真様も」
古都子は小さく言った。
「そう言うと思います」
リュウガは墓石から手を離した。
兄の死は、自分のせいではなかった。
そう言い切るには、まだ時間がかかるだろう。心がすぐに納得するわけではない。夜になれば、また昔の場面が戻るかもしれない。兄の背中も、自分の未熟さも、あの黒い身体の感触も消えない。
それでも、道は変わった。
罪悪感に膝をつく道ではなく、兄の選んだ先へ歩く道だ。
古都子が立ち上がる。
「伯耀は捕まりました。彼が東部領のために残したものは、もうほとんどありません。ですが、龍真様が残したものは違います」
「俺が、残さなければならない」
「はい」
リュウガは墓へ一礼した。
龍真兄上。
声には出さなかった。
次にここへ来る時、自分はどこまで進んでいるだろう。兄の代わりではなく、東雲龍牙としてどこまで立てるだろう。
その答えは、まだ分からない。
だが、逃げる理由はもうなかった。
墓地を離れる前に、古都子がもう一度だけ墓へ向き直った。
「龍真様。私はまだ、あなたの言葉を都合よく救いにはできません」
リュウガは黙って聞いた。
「けれど、間違いを直せる日が来るのなら、その日まで逃げずにいます」
風が葉を揺らしたが、返事はない。死者は答えないからこそ、生きている者が勝手に答えを選ぶしかない。
リュウガは古都子の横に立ち、同じ墓を見た。
許しではない。
和解というには、まだ痛みが残りすぎている。
それでも、同じ墓の前に並んで立てるなら、そこから始めることはできる。
リュウガは古都子を置いて先に歩き出さなかった。
墓地の出口まで、二人は言葉を交わさず並んで歩いた。足音は揃わない。歩幅も違う。背負っているものも違う。それでも、同じ方向へ向かっていることだけは分かった。
兄の死を、自分一人の罪として抱える時間は終わった。
古都子を責めるだけで済ませる時間も、きっと終わった。
ここから先は、龍真が選んだ道の先を、生き残った者たちがどう歩くかだ。
リュウガは墓地の門を出る前に、もう一度だけ振り返った。
直されたばかりの墓は、夕方の光を受けて静かに立っている。
今度こそ、眠っていてほしい。
そう願うことだけは、許される気がした。
その願いを胸に置いたまま、リュウガは古都子と共に墓地を後にした。




