04. そして揺らぐはその矜持
「……お前、まだ根に持ってるの?」
朝の空気はいつもより妙なものだった。
窓から差し込む穏やかな光も、どこか少しだけ冷たい。指先に触れる空気が、ほんの少しだけ機嫌を損ねているみたいだった。
「何のことでしょうか」
背後から落ちた声に、ゆっくりと視線を鏡越しに向ける。ルシアによる身支度が終わり、朝食の準備が整うまでのティータイム。
エルは昨日のお昼以来、少し機嫌を拗らせているように見えた。
「……変に子供っぽいわよね、お前」
薄く笑ってやると、彼は空気を変えるように「お嬢様」と言う。
「本日は来客の予定がございます」
急な話題に眉を寄せた。
「……来客?」
「はい。公爵家より使者が」
俯いてそういうことか、と紅茶を啜る。
今日のルシアはどこか生き生きとしていて、仕上がりの艶や質がまるで舞踏会にでも行くみたいな気合の入れ方をしていた。
それにあの父親のことだ、そろそろかとも思っていたがと内心舌打ちする。
謹慎処分を受けてもう二週間と少しが経つ。期間は一ヶ月間だが、おおよそ今回の目的は私がどの程度“問題ない状態”なのかの様子見だろう。
(きも親父……)
ただ褒めてやれるのは、本人ではなく使者を寄越したことだ。
「応対は?」
「形式的なものになるかと」
間を空き「ただ」と強調するように言う。
「いくつか、伝達事項があるようでございます」
その言い方に、少しひっかかりを覚えたが「……そう」とだけ、短く返した。
胸の奥が少しだけ冷えた感じがしたのは、紅茶が冷めてきていたからだと思いたい。
応接室は、過不足なく整えられていた。
飾りすぎず、かといって簡素すぎもしない、“公爵令嬢として問題ない”空間として。
そこに通されたのは、見慣れた男だった。
「お久しぶりでございます、お嬢様」
深く一礼するその姿は、昔と変わらない。
「……久しぶりね、オーフェン」
前言撤回する。
オーフェンは公爵家に長く仕える執事であり、父の側近とも言える人物。故に私にとっては父親が訪れて来たようなものでもある。
白髪の似合う老人でありながら、背筋がピシリと伸びており、細身でありながらもちゃんとした芯のあるしっかりとしたシルエットの男だ。
優しげな目元が穏やかに緩められるのを確認し、お互いに腰を下ろす。
彼にしては、分かりやすく観察してくれているようだ。
「お加減はいかがで?」
「問題ないわ。この通り」
姿勢を正し、視線を受け止める。
別に取り繕う必要のある相手でもないので、無理な笑顔は作らずに。
「……左様でございますか」
オーフェンは小さく頷くが、穏やかな視線の奥には探るような鋭さがあり、緊張感が漂った。
「では、本題に入らせていただきます」
自然と背筋が伸び、彼は「まず一点」と静かに切り出した。
「王太子殿下とのご婚約についてでございます」
その言葉に私は、笑顔は作らずそれでいて表情も変えない。
「……すでに解消されたはずよ」
「形式上は、その通りでございます」
彼は否定せずに「ですが」と続けた。
「現在、王宮内にて“再検討”の動きがございます」
その一言で、空気の冷たさを一気に感じる。
無表情のまま素っ気なく「再検討?」と問うと、オーフェンは淡々と説明する。
「今回の一件につきましては、外部への正式な公表がなされておりません」
つまり、完全な破談としては扱われていないということ。
私としてはあのまま破談となってくれた方が嬉しかったのだが、と思っていると、彼は一拍置いて「また」とさらに続けた。
「殿下側からも、誤解であった可能性が示唆されております」
僅かに、不快感を露にしてやる。
冷静に考えて、第二王子やあの女の態度には多くの疑問が生じてしまう。恐らく現在、父親か誰かがあの事件の不自然な点を洗っている最中だろう。
とはいえ、という感じである。
「随分、都合のいい話ね」
私は今日初めて、オーフェンに笑みを向けた。
「ごもっともにございます。ですが、王家としては“穏便な収束”を望んでおられるのでしょう」
ふ、と思わず笑い声が漏れる。
要するに、婚約を復活させることでなかったことにしたい、と。
不快な懐かしさが込み上げてきた。
(あぁ、そうか……そうよね。ふふ)
どこまでも自分たちの都合。
完全に政治の駒。
認めよう、この謹慎は随分心地が良い。
貴族社会とは断絶されていて、変な使用人達と穏やかに笑っていられた。
そういう、甘くて私に都合が良い生活。
それでも私が身を置いていた元の場所は、そうだった───そういう世界だった。
「因にだけど……私の意思は?」
微笑みながら問うと、オーフェンは「尊重はされます」と一瞬希望を持たせるような言葉選びをしてくれる。
「ただし、“公爵家の判断”が優先される可能性が高いかと」
私は静かに紅茶を飲んだ。
「現時点では“打診”の段階にございます。しかしお嬢様のご様子次第では、正式な打診へと進む可能性があります」
まだ温かいはずの紅茶に、じわじわと苦味を感じる。
私はこの苦味を知っていた。
「そして、もう一点」
空気がさらに変わる。
オーフェンの視線は私の後ろに行き、ゆっくりと横へ流すと「お側の者についてでございます」と言って、一人に固定される。
現在私の後ろに控えているのは、お付きの侍女であるルシアと護衛の変人。その二択なら、答えは言うまでもない。
「随分と、お近くに置いていらっしゃるようで」
穏やかな声音だが、含まれる意味は鋭い。
背後から静かな圧を感じる。
「好ましくない、と判断される可能性がございますよ」
やんわりとした言い方に、どこか棘がある。
オーフェンは「お嬢様は公爵令嬢であり───」と小言じみたことを続けようとするので、分かっているとばっさり遮った。
しかし彼の視線は尖ったまま、未だ一人を貫いている。
「使用人との距離は、常に適切であるべきかと」
ルシアが小さな声で『そうだそうだー』とオーフェンを後押ししているのが聞こえ、噴き出しそうになった。お願いだから命は大事にしてほしい。
「必要以上の親密さは、誤解を招きます」
貴方がそれを言うのかと思いつつ、その誤解は、誰が誰に対してのものなのか私もよく知っている。
ため息を吐きながら「……理解してるわ」と絞り出した。
オーフェンが去って、暫くの沈黙が落ちる。
ソファーの背もたれに体重をかけ、天井を仰ぎ見る。淑女にはあるまじき行為に、きっとオーフェンがいたら叱られただろうなと思いつつ目を瞑った。
考えるべきなのは、と頭を整理する。
(まずは復縁……)
彼の言葉を反芻すると共に、王子の顔が浮かぶ。未だに、あの瞬間は脳裏に焼き付いていた。
巻き込まないでほしい、というのが本音だ。
当事者が何を言っているのかと自分でも思うが、事件当日から十数日が経ち、加えて謹慎の約二週間を過ごして思うのは、もはやどうでもいいということ。
気持ちに区切りを付けて悲しみを断ち、次に湧き出てくる怒りは行き場を失い潰えて、残るのは何か。
もう穏やかに過ごしたいという諦観だ。
いっそ復縁も受け入れてやろうかと思っていると「ちょ、ルイさん!」という焦った声が聞こえ、微かにウッディ系の香水が香る。
徐に目を開けると、目の前には逆さまのエルの顔。背後から覗き込むようにして、背を丸めているらしい。
(なっ…… ⁉︎)
今までにない近さに声も出せず驚いていると、彼は「お嬢様は」と口を開いた。
このまま会話する気かこいつ、と私は掌で彼の顔を遮るようにする。「さっきの話聞いてなかったんですか !?」というルシアの叫びに、心から共感した。
視線を彷徨わせていると、何かの影がちらちら動くので、ルシアがエルを退かそうと奮闘していることが伺える。彼はびくともしていないが。
「……復縁の話、どうお考えなのですか」
返答に困り取り敢えず「……退いて」とだけ言うと、彼はすんなり従った。ルシアはそれに驚いた顔をするが、思いの外すぐに落ち着いて「確かに、私もそれ気になります」と言い出した。
彼女に問われては逃げ場がない。
「……この際どちらでもいいかなとは、思っているわ」
「っそれは───」
「ダメですよ!」
エルとルシアの言葉が重なり、ルシアが勝った。彼女は「す、すみせん……」とエルに言い直しを促すが、彼はどこか遠い目をして微笑みながら遠慮する。
初めて見る顔だった。
「そ、その……リズベラ様はいつもそうなので、ちょっとよくないと思います!」
ルシアは気を取り直して言い放つが『いつもそう』というのが、いまいち分からない。
上手く言えないのか、頭を悩ませている彼女を眺めていると、ふとその隣にいたエルが一歩近づいてきた。
「お嬢様は、自らそれを望まれるのですか?」
すると「そう !! それですっ!」とルシアが賛同する。
「何でリズベラ様ばかり我慢しなくちゃいけないんですか?」
「それは……」
貴族として、当然のことではないだろうか。
そう答えても「そ、そうじゃなくて……!」ともどかしそうに悶えるルシアを傍目に、エルがもう一度口を挟む。
「一度でも、貴女は自らの願いを口にしたことはありますか?」
「……願い?」
もう自分は喋らない方がいいと悟ったのか、ルシアは黙ってこくこく頷いた。
「復縁を、望まれているのですか?」
「…………」
うまく言葉が出ない。
するかしないかの選択は、いつも最終的に公爵家にとって有益か無益かを判断基準としていた。その前提を壊し、最終的に私の意思はどうなのかと訊かれると、正直困る。
今回もそう。
復縁をするかしないかと問われると、世間体が良いなら"する"と答える。しかし復縁をしたいかしたくないかと訊かれると───。
「……分からない」
酷く情けない答えしか出なかった。
「何を基準として選べば良いのか、分からないし……」
ルシアは「リズベラ様……」と溢し、何て声を掛けるべきか悩んでいるのか瞳を伏せる。
いつの間にか俯いていた私を、エルは「お嬢様」とはっきりとした声で呼んだ。
「もし仮に、お嬢様が復縁を望まれたとして」
少し間を置いた彼は、気が付けば目の前に佇んでいる。
「たとえお怒りを買うことになろうとも、そのご決断には賛同できません」
深緑の瞳が真っ直ぐに私を貫いていた。その顔にいつもの笑みはなく、いつになく真剣な表情をしている。
どうしてそこまで拒絶するのか、疑問に思う私に彼は「私は……」と続けた。
「お嬢様に一度でも害を及ぼした御方に、お任せすることは私の務めとして容認いたしかねます」
どこか苦しげに言うものだから、その言葉の奥に潜む何かに触れたくなる。
しかし遂に我慢出来なくなったルシアの「私も嫌ですよ!」という台詞にはっとし、小さく笑みを返した。
「……大げさね」
やはりここは、───私には毒だ。




