02. されど心の紐は少しずつ
浅い呼吸が、規則を失っている。
額にはうっすらと汗が滲み、眉間には深い皺が刻まれていた。
「……う…」
掠れた声が、途切れ途切れに零れる。何かを拒むように、わずかに首を振った。
あの時の香りが充満しているように錯覚する。ズキリと頭が痛み、同時に右手の痛みまで思い出してくる。
周りの嘲笑、蔑み、同情、そして───。
『スフィア!』
その名前を呼ばないで、と叫びたかった。
何故、その人なの?
何故、放っておかないの?
何故、───私じゃないの?
もはや自分のものかも分からない激情が、一気に流れ込んでくる。
得体の知れない何かに蝕まれている感覚。
呑まれてはいけない、と必死に抵抗しても、あの香りが媚りついて邪魔をする。
「……ちが…っ」
この感情は私のものではない。
拒んでも、纏わりついて、絡め取られていく。
助けて、と言葉にならない悲鳴が涙として溢れた。
「───……ベラ、リズベラ」
低く、抑えた声が私の名を呼んでいる気がした。その人が、ごく軽い力で優しく肩を揺らしている。
「……ここにおります」
繰り返す声はとても静かで、それでいてはっきりと私を引き戻してくれる目印のようだった。
そして体がびくりと強張り、私ははっと息を吸い込んで目を開いた。
焦点の合わないまま、荒い呼吸を繰り返す。視線が彷徨い、やがて目の前の影を捉える。辺りはまだ暗いが、いつの間にかランプが点っていた。
「お前、なんでここに……」
掠れた声に、警戒と混乱が滲む。
「お呼びしましたが、応答がありませんでしたので」
エルは優しく微笑み、変わらぬ調子で答える。声も表情も、静かだが心配の文字を滲み出して隠さなかった。
その声音に、わずかに呼吸が落ち着いていく。
「……そう…」
短く吐き出して視線を逸らした、そのときのこと。自分の手が何かを掴んでいることに気付いた。
「……っ」
視線を落とすと、そこにはエルの手。無意識に、しっかりと握りしめていたようだ。
一瞬、思考が止まる。
「なっ……!」
慌てて手を離す。まるで触れてはいけないものに触れたかのように、バッと勢い良く。
「別にッ……ち、違うからね !?」
何が違うのか、と自分でも問いたくなるくらい苦しいものだったが、顔は合わせずに早口で言い訳のように吐き捨てた。
エルはわずかに目を伏せ、小さく笑いながら「承知しております」とだけ静かに返すと、部屋を出ていってしまう。
「っ……」
扉が閉まる刹那、遠ざかる彼の姿を見てハッと我に返った。
己がしようとしていたことに気が付いて、はぁとため息を吐きながら膝を抱えて、顔を腕に埋めた。
(弱く、なったのかしら……)
昼間、名前が出ただけだというのにここまで醜態を晒すとは、と自分の弱さを改めて突きつけられた気分になる。
王子の婚約者として生活していた時の私は、もっと凛としていて自分を律することが出来ていたはずなのに。常に完璧でいなくてはならないプレッシャーや周囲で囁かれる些細な陰口にも、以前なら耐えられた。
そういう風に生きるしかなかった私が、謹慎の数日で一気に崩れてしまったようだ。
「アルノルド様にも、甘えたことないのに……」
思わず溢してしまった王子の名に、さっきの自分がしようとしていたことを思い出す。
───エルに、甘えようとした。
待って、と言おうとしてしまった。
感謝の言葉もまともに言えない人間が、何て浅はかなことを言おうとしたのだろう。散々気遣ってもらっているくせに馬鹿みたいだ、と自嘲した。
途端、扉がノックされる。
「……っ」
バッと顔をあげ、今さら何だと言うのか自分でも分からないが、手櫛で髪を整えた。
「まだ起きていらっしゃいますか?」
先ほどと同じ優しい声色のエルだった。
入室を許可をすると、彼はカップが触れ合うような、柔らかい音を鳴らしながら入ってきた。
「温かいものをお持ちいたしました」
穏やかな笑みと共に差し出されたのは、湯気の立つカップ。ほのかに甘い香りがした。
刺激のない優しい匂い。
「……頼んでいないわ」
「存じております」
即答したが、その声には押しつけがましさがない。
ただそこに“用意されていた”だけのような、そういう感じがした。
少しだけ迷ってから、躊躇いがちに受け取ると、指先にじんわりとした温もりが伝わってきた。それだけで、ほっと心が安らぐ。
中身はホットミルクのようで、一口含むとやわらかな甘さが喉を通っていく。
自然と、呼吸が整っていくのが分かった。
何も言わずにいると、彼も何も言わない。ただ、隣に立っている。
それだけなのに、さっきまでのざわつきが少しずつ遠のいていくように思えた。
「……眠れないだけよ」
ぽつりと、言葉が溢れた。言うつもりはなかったのに。
「左様でございますか」
否定も、慰めも何もなかった。彼の方を向くことが出来ず、今笑っているのかどうかも分からないが、その答えがただ落ち着いて、すとんと自然に落ちてくる。
「……くだらないことで」
「そのようなことはございません」
間を置かずに返ってきた言葉に、わずかに目を見開く。
「お嬢様が苦しまれている時点で、それは“くだらないこと”ではございません」
静かな声で、強くもなく押しつけるでもなく、ただはっきりと。
徐に視線を向けると、彼は微笑んで真っ直ぐ私を見ていた。それでもいつになく真剣な眼差しのように思えて、それが少し可笑しくて。
「……ふ、ふふ」
「大げさね」と思わず笑みまで溢してしまった。
それから暫く、他愛もない話をしていた。
他の使用人の様子や屋敷の以前とは変えた内装、港町の変化など、本当に何気ない話をして過ごしていた。
そうして深夜の二時手前だろうか、そろそろ体に障るからとエルに寝るよう促される。
私としては、さっきの悪夢もあってあまり気乗りしなかった。
それがバレたのか、エルはあろうことか「少し、触れても良いですか?」などととんでもないことを訊いてきた。
「……何する気?」
眠気より警戒心を強めていると、彼は苦笑しながら「おまじないです」と更に胡散臭い言葉を重ねてくる。
変なことしたらぶん殴る、という雰囲気を漂わせながら許可をした。いつもなら絶対に許さないことを、今日は甘受する。
どこか贖罪に似ている、と思っていると、エルはそっと私の右手首を掴んだ。
ビクリと反応したが、その力が余りにも弱々しいことに気が付く。まるで繊細なガラス細工でも扱うみたいに、慣れない力加減をしているような、優しく丁寧な弱さだった。
「少々、失礼いたします」
そう言いながら、彼の指がわずかに動く。
手首を包むように触れたまま、呼吸に合わせるようにゆっくりと、一定のリズムで軽く圧をかけくる。
「……何これ」
「落ち着かせるためのものにございます」
淡々とした説明に「ふぅん」としか返せなかった。
子供扱いされているようなくすぐったさの中に、どこか安堵している自分がいる。本当に心が落ち着いていていた。
手慣れた手つきで、反対の手首でも"おまじない"してくれる。
「……弟や妹がいるの?」
「いえ、兄が二人。幼い頃、よくしてもらっていたんです」
「……仲が良いのね」
微笑みながら「えぇ」と答えるエルの声はとても優しくて、仲睦まじい兄弟を想像すると、その笑顔がとても可愛らしく思えた。
すると私は、途端にうとうとし始める。しかしエルは当然のように寝付くまで待とうとするため、そこまでしなくていいと追い出した。
「……もう大丈夫よ」
扉を少しだけ開けて、二人はそれを挟むようにして話す。私は閉まっている方の扉に隠れながらも、彼の足元を見ていた。「そうですか……」と少し沈んだ声が聞こえるものだから、少し気持ちが動いた気がする。
「それではおやすみなさい、お嬢様」
「お、おやすみ……」
勇気を出すみたいに、すっと息を吸い込むと「あと!」と続けた。
きょんとしているのだろう、振り返りぎわ立ち止まった彼のつま先は、すぐにちゃんとこちらを向く。それに一度言葉を切り、少しだけ迷ったが腹を括った。
隠れているのに、目をキュッと瞑って言う。
「き、今日はありがとう……っ!」
勢いでバタンと扉を閉めようとして───ガッと何かに阻まれた。
驚きのあまりそこを凝視すると、エルの手ががっちりと扉を握りしめているのが見える。ギギギ、と軋む音が聞こえた。
「えぇ……? え、えっ?」
私は照れと困惑でどうにかなりそうになる。しかし、ぐるぐると彷徨わせていた視線を彼に向けると、一瞬でそれらの感情が抜け落ちてしまった。
───エルは言葉を失い、反応に詰まっていたのだ。
初めて見た感動で、頬の火照りが引いていくのを感じる。
思わずポカンとして、意図せずとも暫く無言で見つめ合ってしまった。
「それは……」
わずかに低まった声に、ハッと我に返る。いつの間にかエルも手を引いていた。そう言えばさっき「すみません」と言って離していたか。
「光栄でございます」
いつも通りの笑顔と言葉なのに、その奥に何かが混じっている気がする。
うまく言葉にできないその何かに当てられたのか、私は再び顔が熱くなるのを感じたので黙ってパタンと扉を閉めた。
そのままベッドに潜り込むと、私は枕に顔を埋める。
(せ、成功よね……っ? 言えたものね…… !?)
疑問よりもほっとして、ほとんど緊張が途切れるように眠りに落ちた。
◇◆◇◆◇
パタンと閉められた扉の前に、エルは呆然と立ち尽くす。
俯いて、白い手袋をした己の掌を見た。
扉を閉めさせまいと、ほとんど衝動的に動いた手。指先が微かに震えているのに気づいて、ゆっくりと握りしめた。
一度きつく目を瞑り、あの言葉が自分に向けられた事実を確かめるように、何度も頭の中で反芻する。
素っ気なくも誤魔化せない焦りを滲ませた声、隠れるように身を潜める仕草、扉を閉めてから逃げるように遠ざかる足音。
深くため息を吐いて、握っていない片方の掌で両目を覆った。落ち着け、と自分に言い聞かせるように暫くそうした後、彼はようやく踵を返す。
音もなく廊下を歩く。
『アルノルド様……』
あの時一瞬、呼吸が止まった。
カップに亀裂を入れそうになるのを、必死に堪えていたことを思い出す。
(……まさか、あそこまで影響が出るとは)
自分でも意地悪なことをしたと反省した。
昼間の一言が、思いの外効いてしまったのだろう。
今すぐにでも潰してやりたい思いとともに、ふと笑みが溢れた。
「いや、あの方は嫌がる」
守られるだけの役目では、きっと拒まれる。
きゅ、と大切な思い出を仕舞い込むように、エルは自分の胸に手を押し当てた。
手を差し出してくれた少女の姿が脳裏をよぎる。
『貸して』
ぶっきらぼうな言い方なのに、その手はやけに優しかった。あのときの温もりが今もまだ残っていることを確かめて、エルは静かに立ち去った。




