01. 知らぬは令嬢ばかりなり
一日の始まりは、あまりにも静かだった。
カーテンの隙間から差し込む光が、ゆっくりと室内を満たしていく。時間が流れているはずなのに、その実感がどこか希薄だった。
目を覚ましてもしばらく、私はただ天井を見つめていた。
何も考えないようにしているわけではない。
けれど、積極的に何かを考えようともしていなかった。
そうしていると、不意に声が落ちてきた。
「お目覚めでいらっしゃいますか、お嬢様」
それもすぐ傍から。
心臓が、わずかに跳ねる。
視線を横に向けると、そこには当然のようにエルが立っていた。
昨日と同じように、優しく微笑んでいる。
「…………いつからいたの」
問いかけると、彼は真っ直ぐこちらを見て「つい先ほどでございます」と迷いなく答えた。
満面の笑みである。
(嘘おっしゃい)
むくり、と起き上がり「お前、使用人向いてないわよ」とため息まじりに咎めた。いるなら早く言えと示唆したつもりが、エルは悪びれる様子なくくすりと笑う。
「存じております」
(こいつ……)
思わず呆れ返ってしまった。
「お加減はいかがでしょう」
「……問題ないわ」
「左様でございますか」
意味のないやり取りのようで、実は役に立つようである。
ベッドから降りると、視界がわずかに揺れた。
「……っ」
足元が不安定になる、その一瞬の隙を彼は見逃さなかった。
気づいたときには腕が腰に回されており、しっかりと、しかし過剰ではない力で体を支えてくれている。
あまりにも自然で無駄のない動きは、まるで最初からそうなると分かっていたかのようだ。
「やはり体調が優れないのでは?」
「……近いわ」
顔を覗き込んでくる彼に、思わず言ってしまった。彼はわずかに視線を下げ謝罪するが、腕は離さなかった。
「……離れなさい」
「体調はいかがですか?」
私はぐ、と言葉につまる。
「……ただの運動不足よ」
「なるほど、では本日はお散歩でもしましょうか」
「……離れなさい」
その言葉で、ようやく腕が離れた。
「リズベラ様ぁ! あんな奴いつでも追い出していいですからね !?」
「……エル、とかいう奴?」
髪を梳かしてくれている侍女───ルシアは、首が捥げそうなほど頷きながら「そうです!」と叫んだ。
彼女は茶髪を大人っぽく結い上げてはいるが、輪郭にはあどけなさが残る少女で、年齢も見た目どおりまだ若い。その若さ故か朝から騒がしいのでいつも困っている。
「毎朝毎朝お付きの私より先にリズベラ様を起こしてるっておかしくないですか !?」
「……おかしいわね」
「ですよね !? 変態なんですかね !?」
ルシアはすごくうるさいが、思っていることを素直に言ってくれるので嫌いではなかった。すごくうるさいが。
「あ、もしかしてリズベラ様……満更でもないんですか? 私よりエルさんが良いんですか !?」
髪を結い終えて「世間一般ではイケメンと呼ばれる部類だから !?」と喚くルシアに、取り敢えずデコピンした。
謝罪しつつ額を押さえる彼女は、馬鹿正直というより正直で馬鹿な生き物なのである。
「でもリズベラ様、実際どうなんですか?」
今日の髪型はハーフアップらしい、と確認していると櫛やピンを片付けていたルシアが話し掛けてきた。
「何が?」
「護衛騎士ってそこまでするものなのかな、と」
「……何の話?」
急に護衛騎士の話を振られても、と困って見せるとルシアは「え、エルさんの話ですよー?」と言葉を続ける。
「護衛騎士って主人の生活サポートもするんですか? にしても料理とかはやり過ぎな気が───」
「え?」
初耳だった。
朝食の場にて、後ろに控えるエルに一瞬視線を送る。
「お前、護衛騎士だったの?」
「はい。自己紹介の時にもお伝えしたと思うのですが」
「…………」
ルシアにも同じことを言われた。何なら、謹慎処分が下された日に受け取った、父親からの手紙でも説明されていたようである。
(手紙、読んでない……)
初日から数日はショックが大きくて、手紙は落ち着くまではと机にしまったきりだし、自己紹介などまともに聞いていなかった。
自業自得なのでどうしようもないが、新事実の発覚に想像以上の衝撃を受ける。
「……護衛がなぜ起こしに来るの」
「何故、と言われましても……」
エルの表情は見れないが、きっと笑みは絶やしていないのだろう。困ったような声色の裏に、余裕が滲み出ていた。
「お嫌でしたか?」
「……私が嫌というより、ルシアがね」
お付きとしてのプライドが、などとよく分からないことも言っていたか。私としては誰に起こされようと変わらないのであまり興味が無い。
するとエルは「そうですか」と何処かほっとしたように言ってから「良かったです」と続けたので、今後も起こしに来るのだろう。
「……よく分からないのだけど、護衛というのは料理にまで口を出すの?」
「ふふ、お嬢様がお嫌なことは致しません」
否定しないどころか、楽しそうに笑っているらしい。
(つまり管轄外だけどしてる、と)
こいつは本当に頭がおかしい。何がしたいのか全く分からない。
私の謹慎先は、公爵家が所持する別荘の一つだ。領地の端に位置しており、先代の隠居先出もなければ、特段誰かを招くこともない。
故にこの屋敷にいる使用人の数は少ないのだ。
流石は公爵家と言いたくなるような、別荘にしては豪華で大きな屋敷だが、今いる使用人は十数人程度だろう。
私はスープを飲み終え、スプーンを静かに置く。周りには物音一つ無く静まり返り、誰もいないような錯覚に陥る。
それは皆が息を潜めているわけでも、隠れるように過ごしているわけでもない。
ただ聞こえない。それほど少ない。
とはいえ、皆使用人は使用人として、料理人は料理人として仕事をしている。
「……取り敢えず、職場崩壊するからやめて」
「かしこまりました」
笑顔で即答するエルを、今後信用しないと決めた私であった。
「……この土地に来たことがあるの?」
食後、早速散歩に出かけることにした私は、エルと二人で屋敷の庭をゆったりと歩いていた。散歩と言っても謹慎中の身である上に、すぐ街に出るのも身体に障る、と言われたのである。
私の問い掛けにエルは「えぇ、随分前ですが」と機嫌良く答えた。
「……よく、覚えています」
刹那、エルの笑顔がいつもとは違うように思えた。慈しみにもにた感情が滲んだようにも思えて、つい私は彼の顔を凝視してしまう。
「ですので、観光案内くらいなら出来ますよ」
相変わらずのにこにこに戻ったので、ふいと顔を背けた。
「……頼んでないわ」
「いつか、の話でございます」
この土地はシャルノアと呼ばれ、海が近く観光地としても有名なのである。港町は酒場が繁盛しているのは勿論、最近ではお洒落なカフェも建ち並ぶようになっていた。
庭からは見えないが、二階あたりからならその街並みも眺めることが出来る。
そして、不意に足を止めた。
「……綺麗ね」
辺り一面には青々と茂る草木が広がっており、生き生きとしつつもしっかり整えられていたタイルの道端には可愛らしい花が植えられた花壇が沿っていて、中央のガーデンファニチャーへと道案内をしてくれているようだ。
「お嬢様がご覧になる日を想定し、整えておりました」
「お前ねぇ……」
思わず頭を抱えてしまった。
庭師の仕事まで着手していたとは。
(……これじゃあ本当に職場崩壊してたじゃない)
ルシアには感謝しなければならない。恐らくあれ程泣きついてくれなければ、このまま放置していたところだった。
「……ん」
少し強めの風が頬を撫でると、髪が揺れて視界を遮る。頬にかかった髪を払おうとすると、指先が髪と別の何かに触れた。
パッと横を向くと、こちらに腕を伸ばしたエルが見え、彼の指に触れていたことに気付く。
「……触れないで」
髪を払おうとしてくれたのだろうが、私からは拒絶するような言葉しか出なかった。
「申し訳ございません」
すぐ返した謝罪の割に、指が離れるのがほんの一瞬だけ遅いように思えた。
妙に意識に残る間の取り方に、沈黙が落ちる。暫く続いた沈黙の間、私は中央のガーデンチェアに座りに行った。
庭の造形は変わったが、これだけは変わっていないらしい、とテーブルをさらりと撫でる。年期の入った、少し錆が目立つ黒いシックなデザインのものだ。
(……いつだったか、ここで遊んでいたわね)
もうあやふやな幼い頃の記憶に、どこか懐かしさを覚える。
すると気を利かせたのか、ずっと黙り込んでいたエルが「そう言えば」と口を開いた。
「男爵令嬢───スフィア様でしたか。彼女、最近よく外出されているようです」
唐突に落とされた言葉に、空気がわずかに変わる。
「…………」
思わず眉をひそめて視線を向けると、彼はほんの僅かに目を伏せた。
「多少、耳にする機会がございましたので。不快にさせたのであれば、謝罪いたします」
“多少”という言葉が、妙に軽く聞こえる。
何故今それを言うのか、そもそも何故それを知っているのか、訊きたいことが山ほど出来たが、顔を背けて「ふぅん」とだけ答えた。
表情を見られないようにしたかった。
静かに、下唇を噛んだ。
(名を聞くのは、思った以上に不快ね……)
何より、してやられた感が拭えない。
あの時の感覚は誰かに操られていたような、自分ではない誰かの行動に思えてならない。何せ、未だにあの後の記憶があやふやなのだ。
まんまと嵌められたような悔しさと、それに上手く乗せられた自分に腹が立って仕方がない。
「お嬢様」
「……なに」
「……あまり、お気になさらない方がよろしいかと」
声の調子がわずかに低く、抑えたような響きだった。
「もう気にしていないわ」
王子への恋心も、自覚と同時に吹っ切った。忘れざるを得なかったのもあるが、少なくとも以前のように心が乱れることはない。今は悲しみより、怒りの方が強い。
「左様でございますか」
そのとき一瞬だけ、彼の瞳が冷えたように思えた。
ぞくり、と背筋が震える。
「……どうかした?」
思わず振り向いて、問い掛けた。
「いいえ、何も」
すぐにいつも通りの笑顔に戻る。
気のせいか、と少しの違和感を胸の奥に押し込めつつ、その日を過ごした。
◇◆◇◆◇
夜は、静かに訪れる。
屋敷の灯りが落ち、すべてが眠りにつく時間。
廊下に音はない。
しかし月明かりの差し込む窓辺には、一人男の影が落ちていた。ふっと柱の陰に消え、月明かりの下また現れるその影は、足音すら存在しないかのように、滑るように進む。
止まることなく、迷うことなく進み、一つの部屋の前で足を止めた。
鍵はかかっていない。
音もなく扉を開け、彼は中に入る。
視線は部屋の一点に向く。
(……やはりか)
見据えているのは、とある細工箱。蓋を持ち上げると中には小瓶が入っており、かすかにだがふわりとあの甘い香りが漂った。
彼は指先で持ち上げ、軽いことを確認する。
(……分かりやすい)
感情のない瞳でひとしきり小瓶と箱を見詰め、指先にわずかに力を込めた。
パキリ、と小さな音。
男は無造作に瓶を砕くと、部屋を一瞥する。
くだらない、と言わんばかりに細める瞳には、明確な敵意と静かな怒りがあった。
(……害が及ぶ前に排除するべきか)
暫くの沈黙の後「いや」と呟き、わずかに口元が歪ませる。
「もう少し、泳がせるか」
笑みと呼ぶにはあまりにも冷たい表情で、微かな愉悦を滲ませた声色だった。
「ねぇ───リズベラ」
その言葉だけが、わずかに温度を持っていた。
そうして、その影は音もなく消える。
◇◆◇◆◇
その夜私は夢を見た。
あの変人護衛騎士の言葉のせいだろう。
───事件の夜会、その一端。
いわゆる、悪夢だ。




