プロローグ
薄く差し込む陽の光が、やけに白く感じられた。
静まり返った室内。
ゆっくりと、ベッドから身体を起こす。
控えめながらも多様に施された装飾も、今となっては賑やか彩られているように思える。かつては人の気配で満ちていたこの屋敷も、今は必要最低限の者しか出入りしない。
(…………謹慎)
感情は、もうほとんど凪いでいる。
す、と己の目元に触れ、腫れがひいていることを確認する。
泣いたのは最初の数日だけだ。
それでも、胸の奥に残るものが完全に消えたわけではない。
すると、静かなノック音が思考を切り裂いた。
「お目覚めでいらっしゃいますか、お嬢様」
返事をすると、一人の使用人が入ってくる。
長く伸ばした銀髪を綺麗に結った、深緑の瞳を持つ男だった。無駄のない所作で気配を消すように佇むその姿は、妙にこの部屋に馴染んでいる。
私は無関心そうにそっぽ向いた。
彼は一歩だけ近づき、深く頭を下げた。
「本日はお身体の具合はいかがでしょう」
「……問題ないわ。過剰な心配は不要よ」
拒絶とも捉えられる言葉に、彼は「左様でございますか」とだけ言って、彼はそれ以上踏み込まない。
そう思っていたが。
「……ご無理は、なさらないでください」
一瞬だけ、言葉に温度が混じる。私はわずかに眉をひそめ、視線を彼に戻す。
「……割に踏み込むのね」
「失礼いたしました」
彼は即座に引き、それ以上は何も言わない。
しかし私は名も知らぬ使用人に対し、直感的な一つの確信があった。
(この男……ただの使用人ではないのでしょうね)
根拠はないが───と目を向けると、不意に視線が合う。
その瞳は何も映していないようで、あまりにも多くを知っているように見えた。
思わず「名前は?」と口にする。
「……エルと申します」
刹那、ほんの僅かに答えるのが遅れた気がしたが「そう」とだけ短く返した。語らないなら別に興味もないので、それ以上は訊かない。
暫くの沈黙と、それを切り裂く「お嬢様」という声。
「なに」
「……殿下のことは、もうよろしいのですか」
心臓が、わずかに跳ねた。
同時に腑に落ちた。こんなずけずけと傷に塩を塗るような男が、使用人に向いているわけがない。
私は迷いなく「えぇ」と言葉を発する。
「もう、大丈夫よ」
それを聞いた彼は、何も言わなかった。
ただほんのわずかに、安堵したように見えたのは気のせいだろうか。
◇◆◇◆◇
思い出すのはあの日のこと。
ざわめきが広間を満たしていた。
豪華絢爛なシャンデリアの下、煌びやかな食器や料理から、煌々と光が反射され、当たり一面が光の海のように輝いている。
楽しげに賑わういつもの夜会も、今夜ばかりは違和感を覚えた。
「あの、リズベラ様……」
傍にいた取り巻きの令嬢が私の名を呼んだ。
言いたいことは分かっている。だが返事もろくに出来ないまま、視線の先にいる二人から、どうしても目が離せない。
───第二王子と、一人の令嬢。
あの子は、と記憶を辿るととある少女を思い出した。
「あのご令嬢、確か……ルベリオ男爵家の?」
呆れにも聞こえる声が周囲から飛び交った。
そう、男爵家である。
にも関わらず、距離が近い。身分で差別するつもりはないが、貴族としてのわきまえというものがある。
殿下と令嬢の指先が触れ合い、視線が絡み合う。まるで、周囲など存在しないかのように。
婚約者である私の目の前で、あまりにも近すぎる。
(……どうして)
身体は勝手に前へと進んでいた。
胸の奥がざわつき、息が少しだけ苦しい。
足を進める毎に増していく頭痛にも似た痛みと、妙な甘い香り。
ふわりと鼻をかすめた、知らない香り。
けれど、意識に残るり、思考が少しだけぼやけていくのを感じた。
(落ち着きなさい……)
これはただの社交の場。
そう自分に言い聞かせるつつ「殿下」と声を掛けたその時だ。
男爵令嬢が、わざとらしく身を寄せる。
その仕草はとても下衆なものに思えたが、殿下は拒まなかった。
(……やめて)
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。初めての感覚に、驚きと困惑が混じった。
これは怒りなのか、それとも別の───。
(違う)
婚約者として生きるようになってから、幾度となく心が折れそうになった。向いていないと分かっても抜け出せない、地獄のような日々を思い返す。
あんな日々をどうして、と。
違うはずなのに───わからない。
ただひとつだけ確かなのは、見ていられないという事実。
「……離れなさい」
声が震えているのが分かる。
絞り出した、たった一言。
二人の動きが止まる。
けれど男爵令嬢はわずかに、挑発するかのように笑った。
途端に何かが切れる感じがした。
「やめなさいと言っているでしょう !?」
パシッと、乾いた音が広間に響く。
空気が、凍りつく。
目の前であの令嬢が倒れていた。赤くなった頬を押さえ、潤んだ目で私を見上げている。
その顔は今にも泣きそうなほど歪み、生理的な不快感が込み上げた。
じわじわと理解する。
(……私が?)
ジンと痛む右手がそれを証明しているようだ。
「スフィア!」
殿下は倒れ込んだ令嬢に直ぐ様手を差し伸べる。
ふわりと、また甘い香りが漂った。
気が付けばまた、パシッと乾いた音がした。
「……っ」
───今度は殿下の頬。
目の前が真っ暗になる感覚と同時に、私はその後の出来事の一切を忘れてしまった。




