40話 魔人⑦
―――――
――ジャティス本部。
緊急警報が鳴り響いた。
けたたましい警報音が施設全体を震わせ、廊下を行き交う隊員たちの足音が重なる。
『総隊長! 緊急報告です!』
「何があった?」
ヴィクトリアは執務室から飛び出してきた隊員へ視線を向ける。
その顔には、明らかな焦りが浮かんでいた。
『先ほど、偵察隊から緊急通信が入りました』
「内容は?」
『……桑原宅に、レグルスが現れたとのことです』
「……何?」
ヴィクトリアの表情が強張る。
『そして――』
隊員が一瞬、言葉を詰まらせた。
「早く言え」
『桑原巧の妹――陽菜さんが、レグルスに連れ去られました』
「…………」
一瞬。
本部全体の音が消えたように感じられた。
「……レグルスの現在地は?」
『現在、追跡部隊が確認中です。ですが、まだそれほど遠くには移動していないと思われます』
「そう……」
ヴィクトリアは拳を握り締めた。
やはり、嫌な予感は当たっていた。
レグルスがジャティス本部へ向かっている。
そう思わせておいて、実際に狙っていたのは別の場所。
そして――そこにいたのが、桑原陽菜。
「エヴァンジェ・ソトは?」
『陽菜さんを庇って交戦したようですが……』
「まさか」
『負傷しています』
「命に別状は?」
『ありません。ただ、レグルスとの戦闘による負傷です』
「……そう」
ヴィクトリアは短く息を吐いた。
そして。
ゆっくりと顔を上げる。
「全隊員に通達」
その声に、周囲の隊員たちが一斉に姿勢を正した。
「現在、桑原陽菜が魔人レグルスによって連れ去られた」
『……!』
「しかし、現時点でレグルスの目的は不明」
ヴィクトリアは淡々と告げる。
「よって、我々は追撃を行わない」
『……え?』
一瞬、誰もが耳を疑った。
「第一、第二部隊は通常通り本部防衛を継続。第三部隊以降も各区域で待機」
『ですが、桑原の妹が――』
「分かっている」
ヴィクトリアは言葉を遮った。
「だが、今の情報だけでレグルスを追えば、こちらが罠へ飛び込む可能性が高い」
『……』
「奴の目的が分からない以上、迂闊に動くことはできない」
冷静な判断。
それは総隊長として正しい。
しかし、この場にはその判断を受け入れられない者が一人いた。
「――ふざけるな」
低い声が響いた。
隊員たちが振り返る。
「……桑原?」
いつの間にか。
そこには巧が立っていた。
息を切らし、額には汗が滲んでいる。
「陽菜が連れ去られたんですよね?」
「……ああ」
「なら、なんで誰も助けに行かないんですか?」
ヴィクトリアは答えない。
「総隊長」
「桑原」
「俺が行きます」
「駄目だ」
即答だった。
「……っ」
「お前には待機を命じる」
「なんでですか!」
巧の声が響き渡る。
「陽菜は俺の妹です!」
「分かっている」
「なら――!」
「だからこそだ!」
ヴィクトリアの声が、会議室を震わせた。
巧が言葉を失う。
「お前を行かせるわけにはいかない」
「……どうして」
「レグルス・クレイマーは、お前が今まで戦ってきた相手とは違う」
ヴィクトリアは真っ直ぐ巧を見る。
「奴は魔人。今までは魔人たちの部下と戦ってきたが、今回は話が違う。」
「……」
「今のお前では勝てない」
「やってみなきゃ分からない!」
「分かる」
ヴィクトリアは静かに言った。
「私には分かる」
巧の拳が震える。
「……俺はジャティスですよ」
「ああ」
「父さんもジャティスだった」
「知っている」
「それなのに――」
巧は歯を食いしばる。
「妹一人、助けに行けないんですか?」
その言葉に。
ヴィクトリアは僅かに目を伏せた。
「……今は、行けない」
「なんで……」
「命令だ」
淡々とした言葉。
だが、その声の奥には僅かな苦しさが滲んでいた。
「全隊員、待機」
ヴィクトリアは改めて命令する。
「レグルスを追うな」
「…………」
「桑原巧」
「……はい」
「お前もだ」
巧は拳を握り締めた。
「……了解、しました」
絞り出すような返事。
しかし、その目は明らかに納得していなかった。
「……失礼します」
踵を返し、そのまま部屋を出て行った。
『……よろしいのですか?』
隊員が小さく尋ねる。
「何が?」
『桑原を……あのままにして』
ヴィクトリアは閉じた扉を見つめる。
「仕方ない」
『ですが――』
「今の彼をレグルスの前へ出せば、妹どころか桑原まで失う」
その言葉には、確かな重みがあった。
「私は、これ以上……桑原の父には世話になった。その子をみすみす死地には行かせたくはない」
『……』
「だから待機させる」
ヴィクトリアは視線を落とす。
「それが今、私にできる唯一のことよ」
――一方。
廊下を歩く巧は、拳を握り締めていた。
「……ふざけるな」
何度も頭の中で繰り返す。
――待機しろ。
――追うな。
――お前では勝てない。
「そんなの……」
巧は足を止めた。
「そんなの、分かってるよ……!」
自分がレグルスに勝てないことくらい。
誰よりも分かっている。
だからこそ悔しかった。
父を失ったあの日、自分は何もできなかった。
そして今も何もできない。
「……陽菜」
幼い頃の笑顔が脳裏に浮かぶ。
『お兄ちゃん』
初めて兄と呼ばれた声。
朝、眠そうな自分を起こす声。
帰宅すれば、いつも笑顔で迎えてくれる。
『おかえり、お兄ちゃん』
「……」
巧は腰の【ハヤテ】へ手を伸ばす。
だが。
抜くことはしなかった。
「……俺は」
小さく呟く。
「何のためにジャティスになったんだよ……」
答えは返ってこない。
ただ、握り締めた拳だけが、震えていた。
――その頃。
西欧のどこか。
レグルスは一人の少女を連れて歩いていた。
「……」
陽菜は不安そうに周囲を見渡している。
しかし、レグルスは一度も振り返らない。
「安心しろ」
「……?」
「まだお前に危害を加えるつもりはねぇ」
レグルスはそう言って。
初めて少女へ視線を向けた。
「俺はお前を使って、アイツを討つ」
――少女の知らないところで、長い間眠っていた因縁が静かに動き始めていた。




