40話 魔人⑤
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それから、さらに数か月が過ぎた。
桑原家の朝は、相変わらず騒がしい。
「お兄ちゃん! 早くしないと遅刻するよ!」
「……あと五分」
「また!?」
「五分くらい誤差だろ」
「ジャティスの人が時間にルーズでいいの!?」
「俺は時間に正確だ」
「今、布団の中だけど」
「……」
「はい、起きて」
「横暴な妹だな……」
陽菜に布団を剥ぎ取られ、巧は渋々身体を起こした。
「寒い……」
「もう朝ご飯できてるよ」
「分かった。今行く」
「最初からそうしてよ」
陽菜は呆れながら部屋を出ていく。
雪の街で出会った少女と少年。
あの日から続いてきた二人の朝は、いつしかこんなやり取りが当たり前になっていた。
――そして。
「おはようございます!」
階下から、もう一人の声が響く。
「……エヴァ?」
「はい! お邪魔しています!」
「……初めてうちに来てから毎朝エヴァが居るんだけど?」
階段を下りると、そこには優雅に紅茶を嗜むエヴァがいた。
「朝から元気だな」
「朝は一日の始まりですから!」
「昨日、夜遅くまでうちで日本の漫画読んでただろ」
「……それはそれです!」
「開き直るなよ」
「細かいことを気にしてはいけません!」
「どこでそんな日本語覚えたんだよ……」
「日本文化研究の成果です!」
陽菜が思わず吹き出す。
「ふふっ」
「陽菜ちゃんまで笑わないでください!」
「ご、ごめんなさい」
そんな光景も。
今では桑原家の日常になっていた。
エヴァが家へ遊びに来ること。
巧が三人分の朝食を作ること。
陽菜とエヴァが日本について語り合うこと。
そして――。
巧がジャティスとして戦いに赴き、帰ってくること。
それもまた、日常の一部になっていた。
しかし、その日常の裏側で世界は少しずつ、確実に歪み始めていた。
――ジャティス本部。
「……またか」
ヴィクトリア・サノーは、机の上に積まれた報告書を見つめていた。
『はい』
向かいに立つ隊員が頷く。
『昨夜、東部地区で魔人による襲撃が発生しました』
「被害は?」
『幸い死者はありません。ですが……』
「何?」
『現場に妙な痕跡が残されていました』
隊員が資料を差し出す。
そこには、建物の壁面に刻まれた巨大な亀裂が写っていた。
「……拳の跡?」
『はい』
「魔人によるものね」
『おそらくは』
ヴィクトリアは写真をじっと見つめる。
やがて、それを机へ置いた。
「……妙ね」
『何がです?』
「この一件だけなら、ただの魔人による破壊行動で片付けられる」
ヴィクトリアは地図を広げた。
「でも、これは一件じゃない」
地図には、いくつもの赤い印が記されていた。
「ここ一か月で七件」
北部。
西部。
東部。
そして、その間にあるいくつもの地点。
「襲撃地点に規則性がある」
『何かを探している、と?』
「ええ」
ヴィクトリアの目が細くなる。
「問題は――何を探しているのか」
隊員は黙り込む。
ヴィクトリアは別の報告書を手に取った。
「それと、もう一つ」
『はい』
「この七件すべてに、同じ魔力反応が残っている」
『……同じ?』
「微弱だけどね」
ヴィクトリアは報告書へ視線を落とす。
そこに記されていた名前は――。
「レグルス・クレイマー」
その瞬間、室内の空気が僅かに張り詰めた。
『……あの男ですか』
「ええ」
ヴィクトリアは静かに答える。
「肉弾戦において、魔人の中でも最強と称される男」
『ですが、本人が直接襲撃したという証拠はありません』
「分かっている」
ヴィクトリアは即答した。
「だから厄介なのよ」
証拠はない。
確証もない。
それでも。
何かがおかしい。
「レグルスが動いている」
『目的は?』
「……分からない」
ヴィクトリアは窓の外へ目を向ける。
「だからこそ、警戒する」
―――――
――同じ頃。
西欧某所。
人の気配が消えた廃工場に、一人の男が立っていた。
「……見つからねぇな」
レグルス・クレイマー。
その手には、一枚の紙が握られている。
そこには、西欧各地の地図といくつもの地点が記されていた。
「ここも違う」
紙を破る。
バサッ。
「ここも……違う」
また一枚。
床へ落ちる。
周囲には、同じように破り捨てられた紙がいくつも散らばっていた。
「ったく……」
レグルスは面倒そうに頭を掻く。
「探すってのは、どうにも性に合わねぇ。やっぱ、部下たちにやらせればよかったか」
そう言いながらも。
その瞳からは、一切の諦めが感じられなかった。
「だが。確実に近づいてる」
何を探しているのか。
なぜ探しているのか。
その答えを知る者は、まだいない。
「もう少しだーー」
レグルスの口元が、不敵に歪む。
そこで言葉を切った。
誰もいない廃工場で低い笑い声だけが響いた。
―――――
――そして、桑原家。
「お兄ちゃん?」
「ん?」
「今日、帰ってくるの遅い?」
「ああ。夜にはなると思う」
「……そっか」
陽菜が少し寂しそうに呟く。
巧は靴紐を結びながら、妹を見る。
「大丈夫だって」
「何が?」
「今日もちゃんと帰ってくる」
「……約束?」
「ああ」
「絶対?」
「絶対」
巧は笑って、陽菜の頭を軽く撫でた。
「じゃあ、行ってくる」
「うん。行ってらっしゃい」
「陽菜」
「なに?」
「ちゃんと戸締まりしろよ」
「分かってるって」
「エヴァも陽菜の事を頼む」
「はい! お任せください!」
エヴァが元気よく手を挙げる。
「それじゃあ――行ってきます」
扉が閉まる。
――パタン。
家の中が静かになった。
「……最近、お兄ちゃん忙しいね」
陽菜がぽつりと呟く。
「そうですね」
エヴァは窓の外を見る。
空は青い。
風も穏やかだ。
一見すれば、何の変哲もない一日。
だが。
「……」
エヴァの表情から笑みが消える。
「エヴァさん?」
「……何でもありません」
「?」
「ただ――」
エヴァは遠くへ視線を向ける。
「少しだけ、嫌な魔力を感じた気がします」
「魔力?」
「はい」
しかし、すぐに首を横に振る。
「気のせいでしょう」
「……そう?」
「きっと」
エヴァは笑顔を作った。
「巧さんなら大丈夫です」
「……うん」
陽菜も頷く。
けれど、二人とも知らなかった。
すでにその日常へ。
見えない影が、静かに手を伸ばしていることを。
レグルス・クレイマーが探しているもの。
その答えが見つかった時。
桑原兄妹の穏やかな日々は――もう二度と、元には戻らない。




