39話 出会い、1/7②
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雪の街で少女を保護してから、一か月ほどが過ぎていた。
少女は今も桑原家で暮らしている。
朝になれば巧と一緒に朝食を食べ、昼は庭で雪遊びをし、夜になれば同じ部屋で眠る。
最初は誰とも目を合わせようとしなかった少女も、今では巧の隣だけは落ち着ける場所になっていた。
少しずつ笑うようになった。
少しずつ話すようになった。
だが、自分が誰なのかだけは、何一つ思い出せないままだった。
警察へ届け出ても。
新聞やテレビで呼びかけても。
少女を探している家族は現れない。
名前も。
住所も。
家族の顔も。
全部、真っ白だった。
『うーん……』
ある日の夕方。
リビングでは巧の父が腕を組みながら、大きなため息をついていた。
「どうしたのお父さん?」
巧が心配そうに尋ねる。
父はテーブルに置かれた書類へ視線を落とした。
『警察から連絡があった』
『やっぱり手掛かりは無しだそうだ』
「そっかぁ……」
巧も肩を落とす。
一か月。
毎日のように「家族が見つかりました」という知らせを待っていた。
けれど。
現実はそう甘くなかった。
『しかも困ったことに』
父は壁のカレンダーを見る。
『来週には日本を出発しなきゃならない』
「西欧に帰るの?」
『ああ』
仕事の都合で、一時期日本に帰ってきていたのだな、桑原家は再び西欧へ戻る予定になっていた。
つまり、巧と父はここからいなくなる事になる。
『このまま身元が分からなければ……』
父は少しだけ言葉を詰まらせる。
『施設へお願いするしかない』
その瞬間だった。
「いやっ!!」
部屋中に、小さな叫び声が響いた。
巧も父も驚いて振り返る。
少女は勢いよく立ち上がると、駆け寄って巧の服をぎゅっと掴んだ。
「ここにいる!」
震える声だった。
「ここがいい!」
大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちる。
「いやぁ……もう……ひとり……いやぁ……」
今までほとんど感情を表に出さなかった少女。
そんな彼女が初めて見せた、本気の泣き顔だった。
巧は目を丸くする。
「大丈夫!」
慌てて少女の頭を撫でる。
「泣かないで、俺がいるから!」
少女は何度も首を横に振った。
「どこにも……いきたくない……」
『……』
父は静かにその様子を見つめる。
この一か月。
少女にとって桑原家が家になっていたことは誰の目にも明らかだった。
だからこそ、父も胸が痛んでいた。
「お父さん!」
巧が真っ直ぐ父を見る。
「何とかならない?」
『巧……』
「施設なんて嫌だよ!」
「この子、一人ぼっちになっちゃう!」
父は困ったように頭を掻く。
『俺だって何とかしてやりたい。だが、この子の家族が探している可能性もある。勝手に海外へ連れて行く訳にはいかないんだ』
「うー……」
巧は考え込む。
そして。
「あっ!」
何かを思い付いたように顔を上げた。
「もう一回!」
「持ち物調べよう!」
『持ち物?』
「うん!」
『いや、一通り確認したぞ』
「もう一回!」
巧は引き下がらない。
『お願い!』
『……仕方ないな』
父は苦笑しながら、保管してあった少女の荷物を持ってくる。
小さな袋の中には古い着替えが数枚。
絵本が一冊。
そして一枚の小さなハンカチ。
「やっぱり何も――あれ?」
巧の手が止まった。
「どうした?」
「これ!」
ハンカチの端を指差す。
「文字がある!」
父も覗き込む。
何度も洗われ、糸はほつれかけていた。
それでも小さな刺繍だけは残っていた。
『……これは陽菜って書かれてるな」
父がゆっくり読み上げる。
「ような?」
巧も続けて口にする。
「ような!」
その瞬間。
少女の肩が、ぴくりと震えた。
「……!」
涙で濡れた瞳が大きく開く。
巧はもう一度呼んだ。
「ような?」
少女はゆっくり顔を上げる。
「……ような」
少女は小さく呟く。
もう一度。
「ような……」
その声を聞いた父は優しく微笑んだ。
『そうか』
『これは君の名前だったんだな』
「名前!」
巧は満面の笑みになる。
「君、陽菜っていうんだ!」
「よう……な」
少女は胸に手を当てる。
陽菜、それが自分の名前。
失っていた記憶の中で、最初に取り戻した、たった一つの宝物だった。
「よろしくね!」
巧はにこっと笑って手を差し出す。
「陽菜!」
少女は少しだけ照れたように笑う。
そして。
恐る恐る、その小さな手を握り返した。
「……たくみ」
初めて呼ばれた自分の名前に、巧はぱっと顔を輝かせる。
「うん!」
「よろしく、陽菜!」
その日少女は初めて、自分の名前を取り戻した。
家族はまだ見つからない。
過去も思い出せない。
それでも、陽菜と呼んでくれる人がいた。
笑いかけてくれる人がいた。
だから、雪しか知らなかった少女の世界に、小さな春の温もりが、ゆっくりと差し込み始めていた。




