38話 出発⑥
「うわぁ……思ったより広いね」
浴室の中に一歩入ると、月菜が感嘆の声を漏らした。
揺れる湯気の中に、大きなステンレス製の湯船が鎮座している。
船員たちが使うための無骨な作りではあるが、しっかりと手入れされており、並々とお湯が注がれていた。
「……まずは身体を洗う」
陽菜は洗い場へ向かい、桶に湯を汲んでサッと身体を流した。
洗面器や備え付けのシャンプー等を手際よく使い、髪と身体を手早く洗い流していく。
「陽菜、本当に仕事が早いなぁ……」
月菜と星菜も隣のシャワーブースに並び、身体を洗っていく。
頭から温かい湯をかぶると、長旅の疲れと緊張で固まっていた頭皮がじんわりとほほぐれていくのが分かった。
「……ふぅ」
一番に洗いを終えた陽菜が、湯船の縁に手をかける。
足をそっと浸すと、心地よい熱さが皮膚を刺した。
そのままゆっくりと腰から浸かっていった。
「あ、陽菜ズルい! 私も!」
月菜も急いで身体を洗い終えると、湯船へと飛び込むように入ってきた。
「ちょっと月菜ちゃん、波立てないでよ」
最後に星菜も静かに湯船に入り、二人の隣に並ぶ。
豊かな胸元がお湯の浮力でふわりと持ち上がり、星菜は気持ちよさそうに息を吐き出した。
「……はぁ〜〜〜……」
三人の口から、自然と揃った溜め息が漏れた。
湯船の縁に顎をのせ、月菜が目を細める。
「生き返る……。正直、資材室の硬い床で腰が限界だったんだよね」
「分かる。でも月菜ちゃん、ちょっと足伸ばしすぎ。あたしの膝に当たってる」
「あ、ごめん星菜ちゃん! だって船のお風呂がこんなに広いと思わなかったから、つい」
「そりゃ、本来は船員さんたちが使う場所だからね」
星菜はおかしくなって小さく笑いながら、水面をぽちゃんと揺らした。
冷え切っていた足先からじわじわと温もりが広がっていき、密航という極度の緊張感の中にいた彼女たちの心を、少しずつほどいていく。
少し離れた場所で、陽菜は静かに目を閉じていた。
「陽菜?」
月菜が覗き込むように声をかける。
「……寝てない」
「言われる前に答えた! でも相当気持ちいいでしょ?」
「……温かい。助かる」
陽菜の短くも本音が籠もった言葉に、月菜と星菜は顔を見合わせて笑った。
普段は感情を表に出さない陽菜が、湯気の中で少しだけ頬を赤く染め、穏やかな表情を浮かべている。
静かな時間が流れる。
「陽菜」
月菜がふと、陽菜な名前を呼んだ。
「ーー何?」
「陽菜のお兄ちゃんってどんな人なの?」
「あっ、あたしも同じ事考えた! これから救出に行く陽菜ちゃんのお兄ちゃんがどんな人なのか知りたいな」
「ーー流石にここまで協力してもらっているのに何も言わないのは筋が通らない」
陽菜は湯船から出て、浴槽の縁に座った。
「かなり話が長くなる。それでもいい?」
「うん、いいよ!」
「いやぁ、こんなとこで女子トークが出来るなんてね」
残り二人も陽菜の両隣に座った。
「私の兄、桑原巧は優しくて、格好良くて」
陽菜はそこで一度言葉を止めた。
普段なら、感情を表に出すことの少ない彼女。
しかし、今の陽菜の表情には、少しだけ懐かしさが浮かんでいた。
「……不器用な人」
「不器用?」
月菜が首を傾げる。
「うん」
陽菜は小さく頷いた。
「困っている人を見ると放っておけない。でも、自分が傷付くことは全然気にしない」
「それ……」
月菜は苦笑する。
「陽菜と似てるね」
「……」
陽菜は少しだけ目を逸らした。
「よく言われる」
「やっぱり兄妹なんだね」
「血は繋がってない」
陽菜は静かに答える。
その言葉に、月菜と星菜は少し驚いた表情を浮かべた。
「え?」
「そうなの?」
「うん」
陽菜は湯船を見つめながら続ける。
「でも、私にとっては……本当のお兄ーー兄さん」
迷いのない声だったが最後にお兄ちゃんというのが恥ずかしいようである。
「小さい頃から、ずっと一緒だった」
陽菜の指が、無意識に握られる。
「泣いていた時も、怖かった時も、いつも、隣にいてくれた」
「……」
月菜は静かに聞いていた。
陽菜が普段あまり語らない過去。
そこには、彼女が兄をどれだけ大切に思っているのかが詰まっていた。
「巧さんって、そんなに強い人なの?」
星菜が尋ねる。
「強い」
陽菜は即答した。
「魔術は使えない。特別な力もない」
「それでも?」
「それでも」
陽菜は頷く。
「誰よりも強い」
その言葉には、確かな尊敬が込められていた。
「昔から、何でもできた」
「料理も」
「掃除も」
「勉強も」
「戦うことも」
「……」
月菜が思わず笑う。
「それ、もしかしてタクローさんと似てる?」
「……」
陽菜は少し考える。
「確かに似ている。でも違うところもある」
「どこ?」
「兄さんは……」
陽菜は目を閉じる。
「結構うっかり屋なとこがある」
「それはタクローさんもじゃない?」
「似ている」
陽菜は小さく笑った。
「だから、月菜が兄を大切にしている理由も少し分かる」
「え?」
「……」
月菜は一瞬、言葉に詰まった。
「そ、そうかな?」
「そう」
陽菜は真顔で答える。
「かなり分かりやすい」
「陽菜ちゃん、そこはもう少し優しく言ってあげて」
星菜が笑う。
「月菜ちゃん、顔に出るからね」
「え!? そんなに!?」
「出る」
「即答!?」
いつものようなやり取り。
そのおかげで、少しだけ空気が柔らかくなる。
しかし。
陽菜は再び静かに口を開いた。
「……でも」
「?」
「私は、兄さんがいるのが当たり前だと思っていた」
その一言で。
月菜と星菜の表情が変わる。
「いつも帰ればいる。いつも困ったら助けてくれるーーーだから……」
陽菜は俯いた。
「失うなんて、考えたことがなかった」
浴室に静かな時間が流れる。
「だから、今度は私が助ける」
陽菜は顔を上げた。
「今まで、ずっと守ってもらったから。今度は私が守る」
その瞳には、強い決意が宿っていた。
月菜は優しく笑う。
「うん」
「絶対助けよう」
星菜も頷く。
「そのために、ここまで来たんだから」
「……ありがとう」
陽菜は小さく呟いた。
そして、その言葉をきっかけに彼女の意識は、遠い昔へと向かっていく。
――まだ幼かった頃。
何も知らず。
何も分からなかった自分を。
初めて助けてくれた少年。
その背中を追いかけていた日々。
陽菜にとっての「兄」。
桑原巧との記憶が、ゆっくりと蘇っていった。
―――――
あの日、雪が降る街の片隅で。
小さな少女は、一人で震えていた。
周囲には助けてくれる人はいない。
頼れる人もいない。
そんな少女の前に一人の少年が現れた。
「……大丈夫?」
それが、陽菜と巧の出会いだった。




