37話 エストファミリア②
誰も動けなかった。
冬の住宅街に吹く冷たい風だけが、静かにタクローの制服を揺らしている。
スーパーの袋から転がった長ネギが、コロコロと音を立ててアスファルトを転がった。
その、あまりにも日常的な光景だけが、この異様な空気の中でひどく場違いだった。
『……隊長?』
一人の黒衣が震える声を漏らす。
返事はない。
霊式を展開し刀を握ったまま、その場でうずくまっていた、
『う、嘘だろ……』
誰かが呟く。
『霊式を纏った隊長が……素手で……?』
『一撃……だと?』
動揺は一瞬で全員へ広がった。
霊式は破魔士の基礎。
身体能力を極限まで高める技術。
その隊長は、この部隊でも五本の指に入る実力者だった。
それが拳一発。
それだけで終わった。
「…………」
タクローは何も言わない。
ゆっくりと拳を開き、軽く手首を回す。
「ちょっと力入れすぎたか」
ぼそり、と呟く。
「殺しはしねーよ。妹の前ではな」
まるで、転んだ相手を気遣うような口調だった。
その言葉が、逆に黒衣たちの背筋を凍らせる。
『化け物……』
誰かが漏らした。
「違う」
ユウゲンが静かに笑う。
「化け物ではない」
その目が愉快そうに細められる。
「我らが誇るエストファミリアの切り札だ」
その一言で、黒衣たちの表情が変わる。
『……エストファミリア?』
『馬鹿な。本物は我らだ!』
「本物?」
ショージが吹き出した。
「ぶはっ! お前らが?」
肩を震わせながら腹を抱える。
「おいおいおい! それ今年一番笑ったぞ!」
「笑い事じゃないわよ」
ミアがライフルを肩へ担ぎ直す。
「勝手に私たちの名前を騙って好き放題してくれたものね」
カチャリ、とボルトを引く音。
「その借りは返してもらうわ」
黒衣たちが一歩退く。
だが。
『怯むな!』
一人が叫ぶ。
『相手は四人だ!』
『囲め!』
霊式を展開した男たちが一斉に飛び出した。
ドンッ!
ドンッ!
アスファルトが弾ける。
十人近い破魔士が、四方八方からタクローへ殺到した。
「……お兄ちゃん!」
月菜が叫ぶ。
それだけの人数。
さすがに無事では済まない。
そう思った。
しかし。
「遅い」
タクローが一歩踏み出す。
それだけだった。
ドンッ!!
最前列の男が視界から消える。
いや、吹き飛んだ。
仲間を巻き込みながら電柱へ激突し、そのまま動かなくなる。
『なっ!』
右から刀。
左から拳。
後ろから蹴り。
三方向同時。
完璧な連携。
なのに。
「雑だな」
タクローは身体を半歩ずらしただけだった。
刀が空を切る。
拳同士がぶつかる。
蹴りは仲間へ直撃する。
『がっ!』
『ぐあっ!』
自滅。
たったそれだけで隊列が崩壊した。
「隙だらけだ」
ドゴッ!
肘。
ゴッ!
裏拳。
ドォン!
回し蹴り。
一撃。
一撃。
誰一人として二撃目を受けることなく倒れていく。
その姿は戦っているというより。
歩いているだけだった。
近付いてきた敵が、勝手に倒れていく。
そんな錯覚すら覚える。
「…………」
月菜は瞬きすら忘れていた。
強い。
そんな言葉では足りない。
陽菜でも。
エヴァでも。
エルンストでもない。
何か、別次元の存在。
「お兄ちゃん……」
知らない。
私は。
こんなお兄ちゃんを。
タクローは黒衣の一人が落とした刀を拾い上げる。
すらり、と鞘から抜いた。
「へぇ」
刃を眺める。
「悪くない刀だ」
その瞬間。
黒衣たち全員の身体が震えた。
刀。
それは彼らが何十年も積み重ねた技術の象徴。
その刀を握る姿があまりにも自然だった。
『……まさか』
隊長格の男が青ざめる。
『あの構えは……』
タクローは静かに刀を下段へ構える。
その姿勢には一切の無駄がない。
まるで何千、何万回と刀を振り続けてきた達人そのものだった。
『お前……何者だ』
黒衣の問いに。
タクローは面倒くさそうに頭を掻いた。
「ただの高校生だよ」
そう言って、小さくため息をつく。
「……妹にシチューを作るために帰りたいだけのな」
その何気ない一言が。
この場にいる誰よりも恐ろしく聞こえた。
『何故、貴方が魔術士どもに肩を持つのですかっ!? 【ミシマ】さんっ!!』




