37話 エストファミリア
「いや、だからあんま大声をだな……」
「心配するな! 我の《王域》で外には声が漏れないようにしておる」
ユウゲンが得意げに胸を張る。
いつの間にか周囲には薄く透明な結界が張られ、夜風が触れるたびに水面のような揺らぎを見せていた。
「この領域内で起きる音、衝撃、気配は外へ漏れぬ。近隣住民が騒ぎに気付くことはない」
「便利な能力だけど、使い方が物騒すぎるんだよ」
タクローは呆れたように肩を竦める。
その様子を見て、月菜は呆然と立ち尽くしていた。
「え……?」
理解が追いつかない。
さっきまで自分は死を覚悟していた。
陽菜は倒れ、エヴァも動かない。
絶体絶命だったはずなのに。
目の前では、お兄ちゃんとその友達が世間話でもするかのように話している。
「……お兄ちゃん」
震える声が漏れる。
タクローはようやく振り返った。
「ん?」
「…………」
そして初めて、月菜の姿を真正面から見た。
破れた魔装。
切り裂かれた袖。
膝から流れる血。
頬についた傷。
泥だらけの髪。
そして涙でぐしゃぐしゃになった顔。
「…………」
タクローは何も言わなかった。
ただ静かに妹を見つめている。
その沈黙が、逆に月菜の胸を締め付けた。
「ご、ごめんね……」
気付けば謝っていた。
「シチュー……一緒に食べようって約束したのに……」
涙が止まらない。
「私……守れなくて……」
怖かった。
苦しかった。
痛かった。
もう立っているのも限界だった。
それでも兄には心配を掛けたくなかった。
「ごめん……お兄ちゃん……」
タクローは返事をしない。
ただ、月菜の傷を一つひとつ確認するように視線を動かしていた。
肩。
腕。
足。
頬。
そして、震える手。
「…………」
ふっと小さく息を吐く。
その瞬間だった。
普段の穏やかな表情から、笑みが完全に消えた。
月菜は思わず息を呑む。
こんな顔をした兄を、一度も見たことがない。
感情を押し殺したような無表情。
静かすぎる瞳。
そこには怒りも憎しみも浮かんでいない。
だからこそ、恐ろしかった。
「……誰だ」
小さな声だった。
それでも、その場にいた全員の耳へはっきり届く。
「月菜を傷付けたのは」
黒衣の隊長格がゆっくり刀を構えた。
『我らだ』
短い返答。
タクローは小さく頷く。
「そうか」
それだけ言うと、スーパーの袋を足元へ置いた。
袋の口から長ネギが一本転がり出る。
「今日はシチューだったんだ」
ぽつりと呟く。
「月菜が朝から楽しみにしてた」
誰に話すでもない独り言。
「帰ったら一緒に食べようって言ってたんだけどな」
ショージも。
ミアも。
ユウゲンも。
誰も口を挟まなかった。
三人とも知っている。
この時のタクローは、一番怒っている。
「……お兄ちゃん」
月菜は震えた声で呼ぶ。
兄の背中が、どこか遠く感じた。
隊長格が刀を向ける。
『妹の仇討ちか』
「違う」
即答だった。
タクローはゆっくり首を横へ振る。
「仇討ちじゃない」
一歩。
ゆっくり前へ出る。
「説教だ」
その瞬間。
隊長格の身体が反応した。
危険。
本能が警鐘を鳴らす。
『総員――』
叫び終わるより早かった。
ドンッ!!
アスファルトが陥没する。
タクローの姿が消えた。
『なっ――』
隊長格の視界から完全に消失。
次の瞬間。
「遅い」
耳元だった。
『しま――』
言葉は最後まで続かなかった。
ゴッッッ!!
タクローの拳が男の腹部へ深々とめり込む。
衝撃波が空気を震わせる。
男の身体は「く」の字に折れ曲がり、そのまま数十メートル先のガードレールへ突き刺さった。
轟音。
骨がひしゃげる音。
コンクリートが砕け散る音。
静まり返る住宅街。
誰も、動けなかった。
『隊長……?』
黒衣の男たちが呆然と立ち尽くす。
一撃。
本当に、たった一撃だった。
霊式を極限まで高めた破魔士が、何の抵抗もできず戦闘不能になったのである。
月菜もまた、言葉を失っていた。
「……え」
知っている。
毎朝起こしてくれる兄。
料理を作ってくれる兄。
一緒にテレビを見て笑う兄。
その兄が。
今、自分たちを圧倒した破魔士を、一撃で倒した。
「……お兄ちゃん」
思わず呟く。
「……何者なの?」
その問いに答える者は、まだ誰もいなかった。




