36話 不穏⑩
「……え……」
月菜の思考が止まる。
「え……?」
理解が追いつかない。
どうして。
どうして、お兄ちゃんがここにいるの?
ここは戦場だ。
武器を持った破魔士が何人もいて、陽菜もエヴァも倒れている。
普通の人が来ちゃいけない場所だ。
「お、お兄ちゃん……?」
震える声で名前を呼ぶ。
「ん? なんだ月菜?」
ゆっくりと月菜に近づいていつも通りの口調で返答した。
「……どうした、その格好」
月菜の目から、一気に涙が溢れる。
「な、なんで……」
違う。
そんなことを聞いている場合じゃない。
「お兄ちゃん!」
悲鳴のような声が響く。
「来ちゃダメぇぇぇぇっ!!」
破魔士の男たちが刀を構え直す。
月菜の顔から血の気が引いた。
「逃げて!!」
必死に叫ぶ。
「お願いだから逃げてっ!! この人たち強いの! お兄ちゃんじゃ勝てないから!!」
涙で視界が滲む。
こんなの嫌だ。
自分のせいで、お兄ちゃんまで巻き込まれるなんて。
それだけは絶対に嫌だった。
しかし。
タクローは困ったように頭を掻くだけだった。
「いや、逃げろって言われてもなぁ……」
手に持っている買い物袋を見下ろす。
「シチューの材料、結構重いんだけど」
「そうじゃなくてぇぇぇっ!!」
月菜の悲鳴が冬の住宅街に響く。
涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、月菜は必死に手を伸ばした。
「お願いだから逃げて! 本当に危ないの! お兄ちゃんには勝てない相手なんだから!」
だが、タクローは首を傾げるだけだった。
「んー……」
買い物袋を見下ろし、中身を一つずつ確認する。
「牛乳よし。じゃがいもよし。にんじんもある。シチューのルーも割れてなさそうだな」
「お兄ちゃん!!」
月菜は思わず叫ぶ。
「そんなこと確認してる場合じゃないよ!」
「いや、割れてたら結構ショックだからさ」
「そういう問題じゃないの!」
目の前には刀を持った男たち。
陽菜もエヴァも倒れている。
そんな状況で夕飯の心配をする兄が、月菜には理解できなかった。
すると二人の男が一歩前へ出る。
『一般人』
低く、冷たい声だった。
『最後に警告する』
刀の切っ先が、静かにタクローへ向く。
『そこを退け』
タクローはようやく男へ視線を向けた。
「ああ、俺?」
『そうだ』
「なんで?」
『任務の邪魔だからだ』
「任務?」
タクローは首を傾げる。
「女子学生相手に集団で刀振り回すのが?」
その一言で、男の眉が僅かに動いた。
『……貴様には関係ない』
「いや、あるだろ」
タクローは小さくため息を吐く。
「その子、俺の妹なんだけど。後、妹の友人と同級生だ」
月菜はハッと顔を上げる。
その声は、いつも通りだった。
朝起こしてくれる時と同じ。
ご飯を作ってくれる時と同じ。
怒っているようには見えない。
けれど。
どこか、冷たい。
「お兄ちゃん……」
陽菜も、薄く目を開けた。
「……タク、ローさん……」
霞む視界の中で、立っている背中だけが見える。
逃げて!!
そう言いたいのに、声が出ない。
エヴァもまた、浅い呼吸を繰り返しながら、その様子を見つめていた。
(どうして……)
彼は一般人のはず。
魔力もない。
霊力も感じない。
なのに。
(どうして……動じないのですか)
普通なら足が震える。
刀を向けられれば逃げ出す。
それが当然だ。
しかしタクローには、それが全くない。
男が静かに刀を構え直した。
『三秒やる』
「……」
『消えろ』
住宅街へ冷たい風が吹き抜ける。
その風で、スーパーの袋が小さく揺れた。
タクローは困ったように頬を掻く。
「参ったなぁ」
ぽつりと漏らす。
「急いで帰ってシチュー作ろうと思ってたんだけど」
『聞こえなかったか』
「聞こえたよ」
タクローは頷く。
「でもさ」
視線だけを男へ向ける。
「人ん家の妹泣かせておいて、『どけ』はないんじゃないか?」
その場の空気が、僅かに張り詰めた。
男は無言。
タクローも無言。
ただ互いを見つめる。
数秒にも満たない沈黙。
だが月菜には、それが何分にも感じられた。
『……一般人』
男が静かに口を開く。
『命が惜しくないらしいな』
「惜しいぞ」
タクローは即答した。
「だから早く帰って、シチューを作りたいんだよ。今日は寒いし」
『ならば退け』
「断る」
その返答も、あまりに軽かった。
男の瞳から感情が消える。
『ならば斬る』
霊力が膨れ上がる。
淡い白い光が刀身を包み込み、空気が震えた。
月菜の顔色が変わる。
「だ、ダメぇぇぇぇっ!!」
叫ぶ。
「お願いだから逃げてぇぇぇっ!!」
だが、タクローは振り返らなかった。
月菜へ背中を向けたまま、小さく笑う。
「そんなに心配すんな」
「でも!」
「月菜」
その一言だけで、月菜は息を呑んだ。
「スーパーの袋、預かっててくれ」
「……え?」
タクローは何でもないことのように袋を持ち上げ、月菜の足元へそっと置く。
「卵入ってるから落とすなよ」
「お、お兄ちゃん……?」
「あと、長ネギ踏むなよ」
「そ、そうじゃなくて!」
訳が分からない。
どうしてこんな状況で、そんな話ができるのか。
隊長格の男もまた、琢郎から目を離さなかった。
この少年は何だ。
霊力は感じない。
魔力もない。
なのに。
目の前に立たれているだけで、胸の奥に言いようのない違和感が広がっていく。
本能が、小さく警鐘を鳴らしていた。
『……斬れ』
隊長格が短く命じる。
『その一般人から始末しろ』
『はっ!』
返事と同時に、一人の破魔士が《霊式》を纏って地面を蹴った。
爆発的な脚力。
一瞬で間合いを詰め、日本刀が夕闇を切り裂く。
「お兄ちゃぁぁぁんっ!!」
月菜の絶叫が、住宅街に響き渡った。




