36話 不穏⑤
―――――
「色々と心配なところはあるけど、私は一旦、学院に帰らせてもらうね」
エストファミリアの件もあり、ここ最近は毎晩のように集まっていたのだが、エルンストは申し訳なさそうにそう告げた。
「そうですか……。とりあえず私たちは、引き続きエストファミリアの動きに警戒しておきます」
エヴァが真面目な面持ちで頷く。
エルンストは微笑を深め、私たちに指を突きつけた。
「くれぐれも、君たちのほうから手を出さないようにね。エストファミリア相手だと、いくら優秀でもこの三人じゃキツイと思うよ」
「承知しました」
「エルンストさんがいなくなるのは……やっぱり寂しいです」
まだ会って間もないはずなのに、地獄のような猛特訓をともに乗り越えた月菜は、素直に名残惜しそうな声をあげる。
「ふふ、それは仕方ないよ。学院の留守をいつまでも空けるわけにはいかないからね。本音を言えば、月菜ちゃんや陽菜ちゃんとやりたいことが、まだまだ山ほどあったんだけど」
エルンストは悪戯っぽくウインクしてみせ、どこか意味深な視線を向けてきた。
「理事長。良い経験をありがとうございました」
「こらこら、お別れみたいに言わないの。しばらくしたらまた帰ってくるからね」
少し涙目になっている月菜とは対照的に、陽菜は相変わらずのポーカーフェイスで頭を下げる。
「私がいなくても、しっかり訓練は続けるんだよ。君たちはまだ、星核リリックの半分の力も出せていないんだから」
言い残すと、エルンストは軽く手を振った。
「では、何かあればすぐに連絡を。……くれぐれも、無茶はしないように」
――シュン!
夜の空気を切り裂く風の音とともに、エルンストの身体が光の粒子となって夜空へ溶けるように消えていった。
「さて……これからしばらくは、私たちだけになりますね。理事長という絶対的な存在がなくなった今こそ、最も注意すべき局面です」
エルンストという圧倒的な強者の存在は、間違いなくエストファミリアに対する強力な抑止力となっていた。
彼が去った今、敵がどう動くのか――エヴァの表情にも緊張の色が走っていた。
静まり返った屋上に、夜風だけが吹き抜ける。
エルンストが消えた空を、月菜はぽかんと見上げたまま呟いた。
「半分の力、か……。あんなに厳しかったのに、まだ半分なんだ」
「落ち込んでいる暇はありませんよ、月菜ちゃん」
エヴァがいつもの冷静なトーンで言った。
青色の瞳が、夜の街並みを鋭く見下ろしている。
「相手はあのエストファミリアです。いつ牙を剥いてくるか分かりません。今夜はひとまず解散としますが……明日からは訓練のメニューを倍にします」
「ば、倍!?」
「文句を言っている余裕はないはずです。それとも、あの地獄の特訓が無駄になってもいいのですか?」
「うぐっ……それは嫌だけど……」
月菜が撃沈している横で、陽菜は「ふぅ」と小さく息を吐き、制服の埃を払った。
「エヴァの言う通り。嵐の前の静けさ、かもしれないし……準備だけはしておかないと」
「二人とも、真面目だなぁ……」
肩を落とす月菜だったが、その表情に悲壮感はない。
むしろ、エルンストから託された教えを胸に、どこか気合を入れ直しているようだった。
結局、その夜は何事も起こらなかった。
それどころか――翌日も、その次の日も。
エストファミリアが不気味なほど沈黙を守ったまま、一週間という時間があっけなく過ぎ去ろうとしていた。




