36話 不穏
十二月を迎え、紫苑学園の裏山には冬らしい冷たい風が吹き荒れていた。
街では吐く息が白く染まり始めているというのに、この山だけは季節とは別の意味で空気が張り詰めている。
その中心にいるのは、エテルナ魔術学院理事長――エルンスト・グリエル。
そして、その隣にはエヴァが立っていた。
今日もまた、魔法少女たちの地獄の特訓が始まっていた。
「はぁ……はぁ……っ」
月菜は肩で大きく息をしながら、震える手で杖を握り直した。
腕は重く、足は鉛を巻き付けられたように動かない。
肺は焼けるように熱く、それでも身体は冷たい冬の空気を必死に求めていた。
それでも――。
(まだ立てる)
そう自分に言い聞かせる。
ここで膝をつけば、朝から積み重ねてきた努力が無駄になる気がした。
隣では陽菜も静かに呼吸を整えている。
普段ほとんど表情を変えない彼女ですら、額には汗が滲み、肩は小さく上下していた。
「いいですよ、月菜ちゃん」
少し離れた場所から、エヴァが穏やかな笑みを浮かべる。
「前よりも風の流れを読むのがずっと上手になっています」
「ほんとですか?」
「ええ。でも――」
エヴァは理事長へ視線を向ける。
「まだ理事長には届きません」
「その通り」
パチン、とエルンストが指を鳴らした。
その瞬間だった。
山頂を吹き荒れていた風が、ぴたりと止まる。
「え……?」
静かすぎる。
鳥の鳴き声も。
木々が擦れ合う音も。
何も聞こえない。
まるで世界から風という存在だけが切り取られてしまったような、不自然な静寂。
「風が……ない?」
月菜が辺りを見回した、その瞬間。
「来ます!」
エヴァの鋭い声が響いた。
――ドォォォォンッ!!
目に見えない暴風が、何もない空間から炸裂する。
「きゃあっ!」
月菜の身体が軽々と宙へ浮いた。
「月菜!」
陽菜が素早く腕を掴む。
同時に【ソル・コア】が輝き、足元から炎が噴き上がった。
爆風に押されながらも、二人は歯を食いしばって踏みとどまる。
「……今」
「うん!」
二人は同時に地面を蹴った。
「《サンバースト・スラッシュ》!」
「《ムーン・バレット》!」
炎を纏った斬撃が風を切り裂き、無数の光の弾丸がエルンストを襲う。
二人の魔法が一直線にエルンストへ迫る。
ーーしかし。
「ふふ」
エルンストは楽しそうに笑った。
箒をほんの少し傾ける。
それだけだった。
二人の魔法は風向きを変えられ、お互いの横をかすめながら空へと吸い込まれていく。
「そんな……!」
「軌道が変わった……!」
「だから言っただろ」
エルンストは空中で優雅に足を組む。
「私の力は風を操るだけじゃ無い。風の流れを支配する力だよ」
銀色の髪がさらりと揺れる。
その言葉と同時に。
二人の周囲へ幾重もの風の輪が展開された。
一枚。
二枚。
三枚。
さらに四枚。
そして五枚。
「五重……!」
月菜は思わず息を呑んだ。
「理事長、それは少し意地悪じゃありません?」
エヴァが苦笑すると、エルンストは肩をすくめた。
「これも教育。私はあんまりゆとり教育って好きじゃないんだよなぁ」
「本番の敵は、こんなものではありませんからね」
その言葉に月菜は唇を噛む。
突破できない。
そう思った。
だが。
「月菜」
陽菜が静かに声を掛ける。
「さっきの感覚」
「……うん」
二人の考えは同じだった。
風を破るんじゃない。
逆らうんじゃない。
風に乗る。
「行くよ!」
「うん!」
二人は同時に駆け出す。
風へ身体を預ける。
流れを感じる。
逆らわず、その一部になる。
「――そう」
エルンストの口元が柔らかく緩んだ。
「それです」
パキッ。
風の層に一本の亀裂が走る。
一枚。
また一枚。
音もなく風の壁が裂けていく。
「やった!」
「……まだ」
陽菜の視線は前だけを見据えていた。
残るは最後の一枚。
これまでとは比べものにならないほど分厚い風の壁。
二人は互いに頷く。
「《ムーンライトカノン》っ!!」
「《サンバースト・ブレイカー》っ!!」
二つの砲撃、斬撃が一つとなり、最後の壁へ激突する。
――ピキッ。
氷にひびが入るような音が響いた。
だが、その壁を砕き切るより早く。
キーンコーンカーンコーン――。
昼休みを告げるチャイムが山頂まで響き渡る。
エルンストは静かに箒を止め、小さく拍手を送った。
「そこまで」
風の結界が光の粒となって空へ溶けていく。
「お疲れ様、三人とも」
月菜はその場へ座り込み、大きく息を吐いた。
「あと少しだったのにぃ……」
悔しそうに肩を落とす月菜の頭へ、エヴァが優しく手を乗せる。
「十分ですよ。昨日の月菜ちゃんたちなら、二枚目で止まっていました」
「確実に成長しています」
エルンストも満足そうに頷いた。
その一言だけで、二人の疲れは少しだけ報われた気がした。
「さて」
理事長はいつもの悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「頑張ったご褒美にするか、それとも罰ゲームにするか」
「えぇっ!?」
月菜が情けない声を上げる。
「……またですか」
陽菜も珍しく呆れたように小さくため息をついた。
そんな二人を見て、エルンストは楽しそうに笑う。
「もちろん冗談ですよ」
ようやく張り詰めていた空気が和らぐ。
その笑顔を見つめながら、エヴァは誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
「(願わくば月菜ちゃんと陽菜ちゃんが戦地に立たない事を願っていますよ)」
冬空を吹き抜ける風は穏やかだった。
だが、その風はまるで、近いうちに訪れる大きな嵐を静かに知らせているようだった。




