36話 強く⑤
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――その頃、中等部。
昼休みを告げるチャイムが校舎に響き渡ると、授業の空気に包まれていた教室は、一気にいつもの賑やかさを取り戻した。
『月菜ちゃん、お昼どうする?』
「購買のカレーパン、まだ残ってるかな?」
『急がないと売り切れちゃうよ!』
「えっ!? じゃあ急がないと!」
クラスメイトに手を引かれながら、月菜は楽しそうに笑う。
朝の過酷な訓練で全身が悲鳴を上げていたことなど、まるで嘘のようだった。
エルンストが施した治癒魔法は相変わらず規格外で、筋肉痛どころか疲労感まで綺麗に拭い去っている。
(エルンストさん、やっぱりすごいなぁ……)
思い返すだけで肩がすくむ。
風の刃が四方八方から襲いかかり、容赦なく押し寄せる重圧。
陽菜と二人、何度も転びながら必死に食らいついた朝の訓練。
正直、あと十分続いていたら泣いていたと思う。
それでも――。
(私たち、ちゃんと強くなってる)
その手応えだけは、胸の奥で確かな熱となって残っていた。
教室を出ると、廊下では陽菜が静かに待っていた。
「月菜」
「陽菜!」
「今日は中庭で食べる」
「え? 珍しいね」
「……なんとなく」
その短い返事だけで、月菜は理由を察した。
朝、校門で感じたあの視線。
陽菜はまだ警戒を解いていないのだ。
「うん、そうしよう!」
二人は購買で運よく焼きたてのパンを手に入れると、そのまま中庭へ向かった。
冬が近づいているとは思えないほど日差しは暖かく、吹き抜ける風も心地いい。
芝生では運動部の生徒たちが輪になって昼食を囲み、ベンチでは文化部の生徒たちが談笑している。
どこにでもある、穏やかな昼休み。
「今日は静かだね」
「そう」
陽菜は短く返事をしながらも、その視線だけは絶えず周囲へ向けていた。
訓練を終えた今だからこそ、ほんの僅かな違和感も見逃さない。
「そういえば、お兄ちゃんも今頃お昼かな」
「たぶん」
「またショージさんに変なことへ巻き込まれてそう」
「……もう巻き込まれてるかも」
陽菜が真顔で言う。
ちなみに、その騒動の主犯がショージではなくユウゲンであることを、まだ二人は知らない。
「ふふっ、ありそう」
月菜は思わず吹き出した。
きっと今日もタクローは、理不尽な騒動へ巻き込まれているのだろう。
そんな他愛もない会話を交わせることが、月菜には少し嬉しかった。
その時だった。
ピクリ。
陽菜の表情が変わる。
「月菜」
「うん?」
「……静かに」
空気が変わった。
吹いていた風がぴたりと止まり、木々のざわめきが消える。
鳥の鳴き声も、遠くから聞こえていた運動部の笑い声も、急に遠ざかったように感じた。
静かすぎる。
まるで世界が一瞬だけ息を止めたような、不気味な静寂。
「っ……!」
月菜は無意識に胸元を押さえる。
【ルナ・コア】が小さく脈打っていた。
危険。
その二文字だけが、頭の中へ直接流れ込んでくる。
陽菜はゆっくりと校舎へ視線を向ける。
誰も姿は見えないが、それでも、確かに感じる。
誰かがこちらを見ている。
「……気のせい?」
月菜がそう呟いた瞬間だった。
サァ――。
一陣の風が中庭を吹き抜ける。
その風に紛れるように、黒い影が校舎の角を横切った。
人影にも見える。
だが、人ではないようにも見えた。
「今の!」
「追う」
陽菜が反射的に駆け出そうとする。
だが、その足を止める声が飛んだ。
『月菜ちゃーん! 先生が探してるよー! 午後の移動教室始まるって!』
「えっ!」
二人は同時に振り返る。
今なら追える。
けれど授業を抜け出せば、間違いなく騒ぎになる。
陽菜は小さく息を吐き、悔しそうに拳を握った。
「……行こう」
「でも……」
「今は証拠がない。放課後に調べる」
「……うん」
二人は名残惜しそうに校舎へ戻っていく。
やがて中庭には、昼休みの喧騒だけが残った。
――そのはずだった。
―――――
誰もいなくなった木陰に、一人の男が静かに姿を現す。
古びた外套を羽織り、その手には一枚の符。
男は校舎へ消えていった二人の背中をじっと見つめていた。
「ふむ。厄介な子がいたものだ」
低く呟き、符を二本の指で挟む。
風が吹く。
それだけで、符が微かに熱を帯びた。
「……まだ早いか」
男は独り言のように呟く。
「だが、嗅ぎつけられた以上、放置はできん」
視線をゆっくり空へ向ける。
雲ひとつない青空。
平穏そのものの景色だった。
「面白い」
男の口元がわずかに歪む。
「この学園には、思っていた以上に厄介な連中が集まっているらしい」
そう言って符を軽く放る。
ふわりと宙へ舞った符は、風へ溶けるように消えた。
次の瞬間には、男の姿もそこにはなく、残されたのは一枚の枯れ葉だけだった。
昼休みは続いている。
生徒たちは笑い、教師は午後の授業の準備を進めており、誰一人として気づかない。
この学園へ、新たな来訪者が静かに姿を現したことを。
そして、その来訪者が月菜たちの運命を大きく揺るが
す存在になることを――まだ、誰も知らなかった。




