36話 強く③
山頂を吹き荒れていた激しい風は、遠くから聞こえてきた朝のチャイムにかき消された。
――ピキーン、コーン。
その瞬間、エルンストがふわりと箒を止める。
周囲を覆っていた圧迫感のある風の結界は、氷砂糖のように脆く砕け、風に溶けるように霧散した。
「そこまで。……お疲れ様、二人とも」
先ほどまでの捕食者めいた冷徹さは消え失せ、エルンストはいつもの優雅でどこか軽薄な笑みを浮かべ、地面へへたり込んだ二人を見下ろした。
「ハァ……ハァ……っ。ギリギリ……だったね……」
泥だらけの魔装のまま仰向けになる月菜。
もうすぐ冬を迎えようとしているのだが、全身から汗が噴き出していた。
陽菜も髪を乱し、肩で荒く息をしている。
それでもエルンストを見据える眼差しだけは、最後まで揺るがなかった。
「……負け、ました」
「ふふ。まあ、そんなところだね」
エルンストは箒を畳み、懐からシルクのハンカチを取り出して額を拭うがまだまだ余裕がある様子である。
「一発も当たらなかったけれど、最後の一撃で私の【風の層】にヒビを入れた。そこは素直に評価してあげよう。まだ3割ぐらいしか力出してないけど」
「……で、罰ゲームは?」
陽菜が淡々と尋ねる。
エルンストはいたずらっぽく、だが底知れない笑みを浮かべた。
「ああ、忘れてた。そうだね……今回は保留にしてあげるよ」
「……保留?」
「ええ。今日一日、二人がどれだけ『可愛らしく』学校生活を送れるか見物させてもらうよ。あ、そうそう。罰ゲームは、【放課後の部活中に、部室で誰かに見つかるまでずっと語尾に「にゃん」をつけて喋る】で。いつ発動するのかは未定で」
「――は、はあぁっ!? 語尾ににゃん……!?」
月菜が信じられないものを見る目で絶叫する。
一方で陽菜は、その罰の内容を冷静に分析するように眉をひそめるだけで、顔色ひとつ変えなかった。
「それぐらいでいいのですか?」
どうやら星菜の罰ゲームに慣れてしまったらしい。
「嫌なら、今すぐ私の風を突破してみせなさい? ……無理なら、いつ実行するかは私の気分次第。さあ、学園生活をスリリングに楽しんでね?」
そう言って箒の先をコツンと地面へ突く。
その瞬間、二人の身体を覆っていた泥も、全身を襲っていた疲労も、風にさらわれるように消えていった。
「さて、お喋りはここまで。君たちが遅刻しちゃうから瞬間移動を使うよ」
パチン、と指が鳴る。
視界が白銀の光に包まれ、次の瞬間には二人は校門前へ立っていた。
「……っ!」
「本当に……学校だ」
登校する生徒たちは、何事もなかったように朝の時間を過ごしている。
「じゃあね、二人とも。今日はいい朝練だったよ」
エルンストは軽く手を振ると、箒にまたがり朝空へ舞い上がる。
その姿は朝日に溶け込むように小さくなり、やがて見えなくなった。
「……行っちゃった」
「……相変わらず無茶苦茶」
そう呟きながら、陽菜は自分の手を見る。
風に抗った時にできた赤い擦り傷はまだ残っていた。だが、それ以上に身体の奥には魔力が満ちていく感覚がある。
「……少しだけ、力が底上げされた気がする。月菜、私たち確実に強くなってる」
「うん……! 昨日の私たちより、ずっと!」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。
――だが、その安堵は長くは続かなかった。
校舎の屋上。
誰かの視線を感じた。
それはエルンストのような遊び心のあるものではない。
もっと冷たく、獲物を狙う狩人のような視線。
「……月菜、今の」
「うん……」
月菜も小さく頷く。
「……なんだか、これからもっと大変なことが起きそうな気がする」
二人は日常へ続く坂道を歩き出す。
世界の裏側では、運命の歯車が静かに回り始めていた。
―――――
「さーて、二人の学園生活でも覗いてみようかな……と、その前にーー」
紫苑学園の上空を飛ぶエルンストの視界には月菜、陽菜を監視する者がいた。
「今のところは何もしなさそうだけどね。下手にこっちから手を出したらエストファミリアと構える事になりそうだなぁ……」
エルンストは二人を監視する者をエストファミリアと断定していた。
「ま、そっちから手を出すというなら容赦しないよーーミシマ」




