35話 魔法使い⑧
「はぁー……びっくりした。まさか、昼間に交差点で会ったあのお姉さんが、エヴァさんの言ってた【魔法使い】だったなんて……」
完全に気配が消え去った玄関の方向を見つめたまま、月菜は張り詰めていた息を一気に吐き出した。
緊張のあまり、背中にはびっしょりと冷や汗をかいている。
「月菜ちゃん、お願いですから本当にもう、あのお方に対してあんな失礼な態度を取らないでくださいね……? もれなく私がエテルナ学院を退学処分になって、魔術師としての人生を強制終了させられてしまいますから……」
そこへ、がっくりと膝から崩れ落ちるようにソファへ倒れ込んだエヴァが、消え入りそうな声で訴えかけてきた。
エヴァは完全に魂が口から抜けかけた抜け殻のようになっている。
「え、えへへ……ごめんなさい。でも、なんだかんだ言っても、そこまで悪い人ではなさそうですよ? ほら、道教えてあげたらちゃんとお礼言ってくれたし、クッキーも美味しそうに食べてたし……」
「あのお方がその気になれば、機嫌を損ねた瞬間にもれなくこの部屋――いえ、この街全体が跡形もなく残骸と化します」
「……うわぁ」
エヴァのあまりに具体的で物騒な脅し文句に、月菜の顔が引き攣った。
やはり世界最高峰の魔法使い。ただの甘党の綺麗なお姉さんだと思って接していい相手ではなかったらしい。
今更ながら、昼間に「大人買いなんてショックだったんですからね!」とぷんぷん怒ってしまった自分を思い出して、月菜は背筋が凍る思いがした。
「……月菜」
静まり返ったリビングに、低く、いつも通りにクールな声音が響いた。
部屋の隅でずっと押し黙っていた陽菜が、ゆっくりと月菜の前に歩み寄ってくる。
その表情はいつものように読めない無表情だったけれど、月菜を見つめる瞳には、隠しきれない複雑な感情が揺れていた。
「……さっきは、ごめん。せっかく心配してくれたのに、何も話せなくて」
「ううん、気にしないでって言ったじゃん! 陽菜が話せるようになるまで、私はいくらでも待つよ」
月菜が努めて明るく笑ってみせると、陽菜はほんの少しだけ目元を和らげた。けれど、すぐにその視線を、自分のぎゅっと握りしめられた拳へと落とす。
「……レグルス・クレイマー。私のお兄ちゃんを連れ去った、絶対に許せない男。……そして、絶対に超えなきゃいけない壁」
陽菜の口から漏れたのは、エヴァですら一歩引くほどの激しい闘志が宿った言葉だった。
エルンストに去り際、耳元で『死に物狂いで強くなりなさい』と告げられた言葉が、今の彼女の心を深く、激しく抉っているのだろう。
大切な家族をあんな怪物から取り戻すためには、立ち止まっている暇などないのだ。
「陽菜……」
「私は、あいつを倒して、絶対にお兄ちゃんを助け出す。……そのためなら、どんなことだってする」
陽菜の言葉に、月菜は胸の奥の【ルナ・コア】が、再び静かに脈打つのを感じた。
『運命の歯車』
それがどんなに過酷な戦いを意味していたとしても、目の前で傷つき、それでも戦おうとしている大好きな友達を、一人きりにするつもりなんてサラサラない。
「うん。……私も、一緒に強くなるよ、陽菜。まだひよっこだけど、この【ルナ・コア】に選ばれたんだもん。陽菜ちゃんの力に、絶対になってみせるから」
元一般人の少女・月菜は、親友の横顔を見つめながら、静かに、けれど固く心に誓うのだった。
窓の外では、夜の街がいつも通り平穏な静寂に包まれている。
けれど、その日常の皮を一枚めくったすぐ裏側で、彼女たちの世界は確実に、激動の未来へと動き出していた――。
―――――
『まさか、魔法使いがここに来るだなんてな。作戦変更、ただちに厳戒態勢に入る』




