35話 魔法使い⑥
「――まぁ、私がわざわざこんな極東の地まで足を運んだ理由は、大体分かるよね?」
ふわりとアールグレイの華やかな湯気を漂わせながら、エルンストは優雅にティーカップを傾け、エヴァへと視線を向けた。
その極彩色の瞳には、すべてを見透かすような冷徹さと、どこか楽しげな悪戯っぽさが同時に宿っている。
「……はい。やはり、エストファミリアの件、ですね」
エヴァは直立不動のまま、喉を詰まらせるようにしてどうにか言葉を絞り出した。
「そう。彼らが不穏な動きを見せているという情報が、エテルナの本国にも入ってきてね。流石に極東の支部と、君たち学生の戦力だけでは心許ないから、私が直接出張ってきたんだよ。――あの【ミシマ】が本格的に表舞台へ現れた時の、抑止力になるためにね」
さらりとエルンストの口から告げられたミシマという単語に、部屋の空気が一段と凍りつく。
夕方、部室でエヴァが語っていた【魔人】の一人。世界をひっくり返しかねない最凶の一族の生き残り。
「……あの、エルンスト、さん」
全身を包み込むようなプレッシャーに冷や汗をにじませながらも、月菜は意を決して、恐る恐る言葉を投げかけた。
元・一般人である彼女にとって、この世界の裏の話は未だに現実離れしている。
けれど、今や魔術師界隈に片足を突っ込んでしまっている身だからこそ、その名前の持つ本当の恐怖が分かってしまうのだ。
「エルンストさんは……その、ミシマという人を、見たことがあるのですか?」
「もちろん、何度かあるよ」
エルンストはあっさりと頷き、クスクスとお茶目に笑った。
「期待外れかもしれないけれど、ミシマの見た目はほぼ普通の人だよ。年齢だって、そこにいるエヴァと同じくらい。普段は、ごく普通の一般社会にうまく溶け込んで暮らしていると思うよ」
「じ、じゃあ、もしかしたら……今日、私が街ですれ違ったり、会ったりしていた可能性も……?」
「大いにあるね」
あっけらかんと言い放たれた言葉に、月菜の背筋を冷たい悪寒が駆け抜けた。
今日、兄へのお土産を買ったあの賑やかな駅前。あの雑踏の中に、世界を滅ぼしかねない『怪物』が、魔術師の探知をすり抜けて普通に紛れ込んでいたかもしれないのだ。
「ミシマだけじゃない。他のエストファミリアのメンバーも、普段は一般社会に深く息を潜めて生活している。だから、誰が彼らの組織の一員なのかは、私であっても一目で見分けることは難しいかな。……でも、安心していいよ。彼らが理由もなく、無差別に一般人を襲うことはないと思うから」
「え……そう、なんですか?」
てっきり、血も涙もない凶悪な悪の組織のようなものを想像していた月菜は、意外な言葉にパチクリと目を丸くした。
「ええ。彼らは自称とはいえ【街の日常を守る自警団】を気取っているからね。表の世界の住人――つまり、かつての君のような普通の人に危害を加えないことをモットーにしているみたい。……けれど」
エルンストはそこで一度言葉を区切ると、手元に置かれたクッキーをサク、と小気味いい音を立てて噛み砕いた。
「裏の人。……つまり、私たち『裏』の人間に対しては、一切の容赦をしない。そういうスタンスの組織さ。現に、もう一人の魔人との小競り合いは今もあちこちで続いているみたいだしね」
噛み砕かれたクッキーが、まるでこれから起こるであろう激しい衝突を暗示しているようで、月菜はゴクリと息を呑んだ。
魔術の世界に関わり始めた自分も、いつかその戦火に巻き込まれるのではないかという現実的な恐怖が、じわりと胸を締め付ける。
―――その時、ずっと部屋の隅で静観していた陽菜の眉が、僅かにピクリと動く。
陽菜はいつもの涼しげな表情を硬く引き締め、限界まで張り詰めた鋭い視線を、ソファでくつろぐ白銀の美女へと真っ直ぐに向けた。
「……もう一人の……魔人」
陽菜が、低く冷ややかな声でその単語をなぞる。
丁寧な口調を崩さないエヴァとは対照的な、どこか突き放すようなクールな口調であった。
「おや、そこの彼女は、ずいぶんと私を睨みつけるね」
エルンストが陽菜のただならぬ視線に気づき、面白そうに極彩色の目を細める。
「よ、陽菜ちゃん……っ!」
エヴァが慌てて陽菜を遮るように一歩前に出た。その顔は今にも泣き出しそうに強張っている。
世界の頂点に立つ存在の機嫌を損ねれば、この部屋ごと跡形もなく消し飛ばされてもおかしくないのだ。
「ふふ、冗談だよ。そんなに怯えなくていい」
エルンストはエヴァの狼狽を優雅に手で制すると、視線を再び陽菜へと戻した。すべてを見透かすような冷徹な瞳が、彼女の心を容赦なく暴いていく。
「君が考えていることは、大体分かっているさ。――お兄さんのことだろ?」
「っ……!」
陽菜の息が止まる。いつも冷静な彼女の手が、かすかに震えた。
「お兄さん……? 陽菜ちゃんのお兄さんって、何かあったの?」
二人の間に流れる異常な緊迫感に、月菜が声を震わせながら尋ねた。
張り詰めた沈黙の中、エルンストは優雅にティーカップを皿へと戻した。カチャリ、と繊細な音が室内に響く。
「え? まだ彼女から何も聞いていなかったのかい? 月菜ちゃん」
エルンストは残酷なほど美しい笑みを浮かぜ、淡々と、けれど決定的な事実を告げた。
「陽菜のお兄さんはね――魔人の一人、【レグルス・クレイマー】に捕まっているんだよ」
「え……っ!?」
月菜の頭が真っ白に染まる。
魔人、レグルス・クレイマー。
夕方の部室で、エヴァの口からミシマと並んで語られた、もう一人の最凶の怪物。
部屋の空気が一気に氷点下まで下がったかのような錯覚の中、陽菜の瞳には、激しい炎のような決意がギラリと宿っていた。




