35話 魔法使い⑤
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その日の夜。
自宅のリビングでお腹いっぱいにチョコレートケーキを堪能した月菜は、日文研の部活動で使うちょっとした資料を借りるため、エヴァと陽菜の宅へ向かっていた。
勿論、タクローには何も伝えずに来ている。
「えへへ、お兄ちゃん、喜んでいたなぁ…嬉しぃ」
つい数時間前の兄の微笑ましい姿を思い出してクスクスと笑いながら、月菜はエヴァたちの部屋のインターホンを鳴らした。
ピンポーン。
――しかし、いつもならすぐに響くはずの「はーい」という穏やかな声が、一向に返ってこない。
静まり返ったドアの向こうに、月菜はわずかな違和感を覚える。もう一度インターホンを押そうとした、その時だった。
カチャリ、と重苦しい音を立ててドアが開いた。
「あ、エヴァさん! 夜遅くにすみませ――」
挨拶をしようとした月菜は、エヴァの顔を見て言葉を失った。
日文研の頼れる先輩であるはずのエヴァが、見たこともないほど顔を真っ青に引き攣らせていたからだ。
その額には、うっすらと冷や汗さえ浮かんでいる。
「つ、月菜ちゃん……。どうして、ここに……?」
「え? あ、部活の資料を借りに……。エヴァさん、どうかしたんですか? 顔色がすっごく悪いですけど……」
「いいから、今は来ちゃダメです。すぐに、帰りなさ――」
エヴァが悲痛な声を絞り出そうとした、まさにその瞬間。
奥のリビングから、ひどく上品で、けれど部屋全体の空気を一瞬で支配してしまうような、麗しい声が響いた。
「――おや。夜分遅くに賑やかだと思ったら、まさかこんなところで再会できるなんてね」
「っ……!」
その声が鼓膜に触れた瞬間、月菜は思わず肩をびくりと震わせた。
昼間、駅前の交差点で聞いた時は「綺麗で気さくなお姉さんだな」くらいにしか思わなかった。
なのに、今はどうしてだろう。
たった一言向けられだけにも関わらず、肌がピリピリとするような尋常じゃないプレッシャーを感じてしまう。
エヴァの制止をすり抜けるようにして、月菜は恐る恐るリビングへと足を踏み入れた。
アールグレイの華やかな紅茶の香りが漂う室内。
ゆったりとしたソファに腰掛け、優雅にティーカップを傾けていたその人が、楽しそうにこちらを振り返った。
照明の光を浴びて、まるで絹糸のように美しくきらめく、特徴的な白銀の長い髪。
数時間前に出会ったばかりの、あの美人外国人のお姉さん――エルンスト・グリエルだった。
「え……っ、エルンスト、さん……?」
月菜の声が、自然と小さく強張る。
昼間の親しみやすさはどこへやら、ソファに腰掛ける彼女の周囲だけ、一般人とは格が違いすぎる圧倒的なオーラが隠しきれずに溢れ出ていた。
ただそこに座っているだけなのに、月菜の身体は緊張でガチガチになってしまう。
ふと視線を外すと、部屋の隅には同居人である陽菜も立っていた。
陽菜はいつものクールな表情のまま、けれどその鋭い視線をじっとエルンストに注ぎ、限界まで警戒するように押し黙っている。
部屋全体を包む尋常ではない空気に、陽菜もまた、ただ者ではない気配を察知しているようだった。
「ふふ、驚いたかい? 月菜ちゃん。そんなに怖がらなくても大丈夫だよ」
エルンストは極彩色の美しい瞳を細め、悪戯っぽく笑ってみせる。
その立ち振る舞いは相変わらず気品に満ちているが、月菜の額からも、じわりと冷や汗が伝い落ちた。
「……え、エヴァさん、エルンストさんって……」
助けを求めるように振り返ると、エヴァは直立不動の姿勢のまま、恐怖を噛み殺すような声でポツリと言った。
「……月菜ちゃん、失礼のないようにしなさい。世界にたった3人しか存在しない【魔法使い】……このお方は、その内の一人ですです……っ」
エヴァの言葉に、月菜のごくりと唾を飲み込む音が、静かな室内にやけに大きく響いた。
夕方に部室でみんなで聞いたばかりの会話が、濁流のように頭の中を駆け巡る。エヴァさんが「足元にも及ばない」と言っていた、世界最高峰の組織のトップ。
(じゃあ……この綺麗なお姉さん、ただの観光客じゃなくて、ものすごーく偉い人だったの……っ!?)
「エヴァ、そんなに彼女を怖がらせなくていいと言っているだろう? 私はただ、日本の美味しいケーキを食べて、親切な少女に道を教えてもらっただけの、しがない旅人だよ」
エルンストはクスクスと笑いながら、テーブルの上のクッキーを一枚、上品につまんで口に運ぶ。
その仕草はどこまでも優雅で、月菜たちを威圧している風は全くないはずなのに、月菜は一歩も動けなくなっていた。
「ふふ、ごめんね、月菜ちゃん。驚かせてしまって。でも、こうしてまたすぐに会えた。これはきっと、素敵な縁が繋がっている証拠だね」
エルンストはそう言って、エヴァや陽菜の緊張を気にする風もなく、楽しそうに目を細めた。
月菜は胸の鼓動をバクバクと高鳴らせながらも、目の前の白銀の美女の底知れない雰囲気に、ただ圧倒されるばかりだった。




