32話 孤高の星は、夜を越えられない⑧
「―――えっ、お兄ちゃん?」
思わず口を衝いて出た、かつての呼び名。
思いもよらない最悪のタイミングでの、思いもよらない人物の登場に、星菜を含めこの場に居るもの皆が呆気にとられていた。
「あぁ、久しぶりに『お兄ちゃん』って呼んでくれたね。最後に言われたのはいつだったかな?」
戦場の緊迫感などどこ吹く風。
現れた少年――佐々木冥夜は、酷く場違いなほどに穏やかな笑みを浮かべていた。
「ちょちょっ!? こんなところに来たら危ないですよ! 早く逃げてください!」
「……佐々木、冥夜」
パニックになりながら叫ぶ月菜とは対照的に、陽菜はボロボロの魔装を手で必死に押さえながら、冥夜に対して鋭い警戒心をむき出しにしていた。
「危ないって言われてもね……実の妹がこんな目に遭っているなら、兄として駆けつけてくるのは当然だよ。それに――」
冥夜はそこで言葉を区切り、眉をひそめて月菜たちをじっと見つめた。
「危ないっていうなら、今はどう見ても、君たちの方が格好が危ないと思うよ?」
――あ。
その指摘に、月菜と陽菜は一瞬だけ思考をフリーズさせ、それから猛烈に己の現状を自覚した。
戦闘の衝撃で破かれ、引き裂かれた衣服。はだけた胸元や、夜風に晒された白く滑らかな太もも。ほぼ下着同然のような、卑猥なほどに無防備な現在の姿。
「ひゃ、ひゃああああっ!?」
「……不覚だった」
二人は一瞬で顔を林檎のように真っ赤に染め上げ、慌てて腕で身体を隠すようにして身を縮こまらせた。
『はぁぁ……お取り込み中悪いけど、今僕は忙しいんだよ』
最高のおお楽しみに水を差されたのが、よほど気に入らなかったのだろう。
ニブラの少年はちっと露骨に舌打ちをすると、不機嫌そのものの顔で冥夜に向かってシッシッと手を振った。
『特別に生かしてあげるから、さっさと消えなよ』
「それは出来ないことだね。何故なら星菜をこんな目に遭わせて、タダで済むとはまさか思っていないよね?」
冥夜の表情に大きな変化はない。声のトーンも穏やかなものだ。
――だが、その瞳の奥にある極限の怒りは、この場にいる誰の目から見ても明らかだった。
『あー、キミがササキのせがれか……。全く気が付かなかったよ。霊力も魔力もろくに感じられないから、ただのゴミクズかと思った』
「別に気が付かなくていいよ。直ぐに地獄へ送ってあげるから」
「佐々木さんっ……! これには、その、非常に深い事情がありまして――!」
魔力を失い、拘束されながらも、エヴァが悲痛な声を絞り出す。
魔術師と破魔士の因縁がこの場で再び爆発することを危惧したのだ。
「話は後でゆっくり聞くからいいよ。でも、君たちが命懸けで星菜を守ってくれた事だけは分かる。――感謝するよ」
『あーああ、何か和やかな雰囲気になってるみたいだけど、僕はお楽しみを邪魔されて機嫌が悪い。東の没落頭首のササキには――早々に退場してもらうよっ!!』
しびれを切らしたニブラの少年が叫ぶ。
直後、地面から、エヴァの結界を叩き割ったあの凶悪な黒い杭のような触手が、猛烈な速度で冥夜の心臓を目がけて突き出された。
常人の反射神経では、まず回避不可能な必殺の一撃。
「機嫌が悪い? 奇遇だね―――」
迫る死の杭を正面から見据え、冥夜はフッと自嘲気味に冷たく笑った。
「――僕は君の何百倍も、機嫌が悪いんだよ」
カチャッ、と金属の硬質な音が響く。
冥夜は瞬時にベルトのホルダーから三本の短棒を取り出し、目にも止まらぬ速さで素早く連結。
瞬く間に一本の漆黒の長棍を作り上げた。
――ズガァァァンッ!!!
凄まじい衝撃音が倉庫街に響き渡る。
ニブラの少年の触手は、確実に冥夜の胸元を捉えていた。
だが、冥夜の身体は一歩も後ろへ下がらず、彼は連結した漆黒の棒を縦に構え、その凶悪な質量の暴力を、正面からガッチリと受け止めていたのだ。
「お兄ちゃん……っ!」
「心配ないよ星菜。僕は強いからね」
佐々木家に伝わる異能――《因果》は、その因果の法則に直接干渉する。
今、冥夜の肉体が受けた『莫大な衝撃』という結果は、彼の手にする漆黒の連結棒へと瞬時に吸い込まれ、蓄積されていく。
『あはは! まともに受けるなんて馬鹿じゃないの!? そのまま押し潰されて――え?』
少年が狂った笑みを浮かべた直後、怪物の顔が驚愕に凍りついた。
押し込んでいるはずの触手から、全く手応えが消えたのだ。
冥夜が衝撃という結果を『保存』したことで、少年の攻撃の威力が完全に中和されている。
「《因果》――第二権能」
冥夜が低く、静かに呟く。
連結棒に溜め込まれた、少年から受け取った『衝撃』。それを冥夜の意思によって増幅し、何倍もの質量へと跳ね上げる。
何もないところから力は生み出せない。だが、相手が強い攻撃を仕掛けてくれば来るほど、それはそのまま、冥夜の放つ一撃の絶対的な破壊力へと変換される。
「《倍加》」
冥夜は連結した棒を軽々と一閃させ、溜め込んだ衝撃を一気に解放した。
ただそれだけの挙動で、少年が放った巨大な触手が、根元から爆音を立てて木っ端微塵に破砕され、闇の霧となって爆散した。
『――っ!? あ、ぎゃああえあああああっ!? 何だこれ、僕の、僕の攻撃の何倍もの威力を……っ!?』
自身の触手を粉砕され、少年が激痛に顔を引きつらせて絶叫する。
「君たち、星菜を頼むよ」
冥夜は振り返ることもなく、再び連結棒を静かに構え直す。
その背中は、かつてすべてを失い、孤独に佇んでいたあの日とは違っていた。
「いまの、一体……」
月菜が呆然と呟く。
彼から感じられる気配は、派手な魔力でもなければ、プレッシャーでもない。
ただ、敵の攻撃を受けるまでは何も始まらない、絶対的な『無』。
「僕は怪異との戦いを捨てた。……だけどね、それは牙を失ったという意味じゃないんだ」
冥夜が一歩、前に踏み出す。
奪う力ではない。支配する力でもない。
ただ受けたものを、そのまま、あるいはそれ以上に返す、佐々木家に伝わる「報いの力」。
「戦う力を捨てたのは、大切な人を傷つけないため。……そして、戦う力を隠し持っていたのは、――こうして、大切な人が傷つけられた時に、その報いを受けさせるためだ」
『ハ、ハズカシイこと言っちゃってさぁ! たかだか一発跳ね返したくらいで調子に乗るなよ、人間風情がぁぁぁっ!!』
少年が顔を真っ赤に歪め、背後から無数の黒い触手の津波を発生させた。エヴァが命を削ってようやく防いだ、最大最悪の暴力が、今度は冥夜一人を目がけて殺到する。
正面から迫る、圧倒的な絶望の質量。
だが、冥夜は避ける素振りすら見せず、むしろ自らその暴威を迎え入れるように、漆黒の棒を握り直した――。




