32話 孤高の星は、夜を越えられない④
「んー、何だってぇ?」
ニブラの少年は手を止め、宙に吊るし上げていたエヴァを自身の顔のすぐ近くまで引き寄せた。
ドロドロと蠢く粘着質の触手が、彼女の豊かな膨らみをさらにキツく締め付け、肉体の曲線を卑猥なほど克明に浮かび上がらせる。
『……It’s exactly what it means. I am simply ashamed of myself for having to go all out against a mere Nibra.』
だが、至近距離でエヴァの口から漏れ出たのは、恥辱に染まりながらも、酷く冷徹な響きを持った『異国の言語』だった。
「ごめんね。僕は日本生まれのニブラだからさ。英語は全然話せないんだよね」
少年はつまらなそうに首を傾げ、薄気味悪い笑みを浮かべる。
依然として、エヴァの柔らかな四肢は黒い触手に絡め取られ、衣服を引き裂かれたまま無防備に宙に晒されている。状況だけを見れば、彼女が圧倒的に不利であることは間違いなかった。
しかし、エヴァの瞳は――まったく死んでなどいなかった。
『……Haa. I have no intention of holding a conversation with a piece of trash like you. But prepare yourself—this is where my real strength begins.』
不快な音を立てて肉体に食い込む触手の中心で、エヴァは深く、重い溜息をひとつ吐き出す。
そして、少年を真っ向から見据えたまま、冷徹な響きを持つ英語でふたたび宣告した。
直後、倉庫街の冷たいアスファルトに、これまで見たこともないほど巨大で禍々しい魔術陣がドクンと脈打つように展開される。
エヴァの全身から溢れ出した漆黒の魔力が、彼女の身体を陵辱していた触手たちを、内側から爆破するように一瞬で消し飛ばした。
「あ、ぐ……っ!?」
拘束を強引に引きちぐり、引き裂かれた衣服から柔らかな素肌を大胆にはだけさせたまま、静かに地面へと着地するエヴァ。
彼女は懐から一枚の白銀のカードを取り出すと、それを自らの胸元へと突き立てるようにして、凛とした声で呪詛のように紡いだ。
『Eterna Magics Academy, Top Graduate. Name: Evanghe Soto. Regarding Hazard Item 337, requesting the Chairman for restriction release.』
その瞬間、魔術陣から噴き上がった闇の奔流が、倉庫街の夜空を完全に塗り潰した。
ニブラの少年が「ひっ……!」と短い悲鳴を上げて後退する。それは魔法少女の清らかな光などではなく、すべてを無に帰す深淵のプレッシャーだった。
「な、何言ってるか全然わからないけど……何だよこれ! キミ、さっきから何を喋って――」
「……あ。すみません、取り乱してしまって。つい故郷の癖で、完全に英語で思考していました」
エヴァは乱れた髪をふいっと払い、何事もなかったかのように、今度は流暢な日本語で微笑んだ。だが、その声は極寒の氷のように冷え切っている。
「言葉通りの意味ですよ。たかだかニブラ如きに私が本気を出さなければならない事を、不甲斐なく思っているのです。……別に、あなたと会話しようとは思いません。ただ、覚悟していてください。ここからが、私の本気です」
はだけた衣服の隙間から覗く、白く滑らかな素肌。そこに、じわじわとタトゥーのような不気味な魔術回路が、脈打つ熱を帯びて浮かび上がっていく。
「冥土の土産に、私の正体を教えてあげましょうか?」
エヴァの背後に、少年の触手など児戯に等しい、圧倒的な質量を持った魔力が吹き荒れる。
「エテルナ魔術学院、主席。名はエヴァンジェ・ソト。私は基本的に自国以外での魔術の使用が制限されているので、全力を出すためには理事長の承認が必要になるのです」
エテルナ魔術学院の理事長。それは、この世界の魔術師たちが恐れおののく学院長の『グレイグ・ロマック』よりも、遥か高みに君臨する絶対的な存在。
その制限が今、目の前で完全に解除されたのだ。
しかし、ニブラの少年は数歩じりりと後退しながらも、すぐにその顔に狂気じみた愉悦の笑みを連れ戻した。
『へぇ、面白い。じゃあ、その主席様は――』
少年は、衣服をはだけさせ、絶頂の余韻と恐怖に震えながら地面に這いつくばる陽菜と月菜、そして昏睡する星菜へと、ねっとりとした視線を向ける。
『そのボロボロになった三人の女の子を守りながら、僕を相手出来るかな?』
満身創痍の少女たちを人質にとるような邪悪な笑みを浮かべる怪物。
夜の倉庫街を舞台に、制限を解除されたエテルナの主席と、さらに残虐性を増したニブラの王子との、本当の死闘が幕を開ける。




