31話 負を喰らう少年。⑨
―――――
「お兄ちゃん……。絶対に、無事で帰ってくるからね」
昼間の賑やかな喧騒が嘘のように引き、世界がすっかり濃い暗闇に包まれた頃。
月菜はいつものように自分の部屋の窓を静かに押し開けた。夜風に髪をなびかせながら、集合場所であるエヴァ宅へと向けて夜空へ飛び立つ。
いつもと違う点があるとすれば、今夜戦う相手がニブラの少年だということ。
実力としては間違いなく格上。人質を取り、仲間すら圧倒した邪悪な怪異。
明日、誕生日を控えた少女が背負うには、あまりにも重すぎる決戦を前に、月菜の横顔はかつてないほど硬くこわばっていた。
――解っている。
もしここで負ければ、自分の明日(誕生日)だけでなく、大好きな日常まで一瞬で奪われてしまうのだ。
「月菜、気をつけろよ……」
廊下の闇に佇み、静かに遠ざかっていく妹の気配を、タクローはただじっと見守っていた。
明日の誕生日に向けた料理の仕込みを終えたばかりのその手は、無意識のうちに固く握りしめられている。
妹が自分に何かを隠し、夜の街で命がけの何かに立ち向かおうとしていることには、とうに気づいていた。
それでも、普通の兄である自分には、何も言わずに送り出すことしかできない。
「頼むから、無事に明日の誕生日を迎えろよ……」
兄の祈りに似た切実な呟きは、誰に届くこともなく、静まり返った暗闇にかき消されて消えた。
―――――
一方、エヴァ宅のベランダにて。
すでに魔装を身にまとったエヴァと陽菜が、険しい表情で夜空を見上げていた。
「月菜さんが来ましたね。これで全員揃いました」
光の粒子を散らしながら、夜風を纏ってベランダに着地した月菜を、エヴァが厳かに出迎える。
「遅くなってごめんね、二人とも!」
「いや、時間ぴったり」
陽菜が冷静な、けれどどこか安心したような温かい瞳で月菜の顔を覗き込んだ。
「うん。ちょっと緊張してるけど……でも、絶対にあの少年を止めなきゃ、お兄ちゃんたちの日常が壊されちゃうから。私、負けないよ」
「ええ、その意気です。作戦を再確認しますよ。今回は待ち伏せではなく、こちらから一気に攻め込みます。まずは陽菜ちゃんが超高速の急襲を仕掛け、私と月菜さんでそのバックアップに回る……。今回は星菜ちゃんが関わらずに済むよう、私たちが迅速に終わらせましょう」
エヴァの言葉に、二人は力強く頷いた。
後でどれだけ恨まれることになろうとも、あのニブラの少年の前では完全に冷静さを失ってしまう星菜を、この危険な戦いに参戦させるわけにはいかない。
それが彼女たちなりの優しさだった。
三人はそう猛信し、完全な隠密体制を維持したまま、作戦ポイントである人気のない湾岸の倉庫地帯へと飛び立っていった。
――しかし、彼女たちはまだ何も知らなかった。
守ろうとしたはずのその少女が、すでに自分たちの遥か先を行き、破滅の引き金に指をかけているなどとは。
―――――
「ハァ、ハァ……っ!」
重苦しい潮風が、鉄錆とヘドロの臭いを運んでくる。不気味なほど静まり返った、巨大な倉庫街。
ひび割れたコンクリートを荒々しく踏み締めながら、星菜は熱い息を吐き出していた。
その全身はすでに魔装を身にまとい、手にした武器を強く、指先が白くなるほどに握り直した。
エヴァたちの作戦開始まで、まだ時間は十分にある。
昼間、月菜たちの会話を盗み聞きして手に入れた座標だけを頼りに、星菜は誰にも告げず、ただ一人でこの場所に先着していた。
(あいつは……あいつだけは、私の手で、絶対に……!)
暗闇を見つめる星菜の瞳には、復讐の黒い炎が妖しく揺らめいていた。
かつてあのニブラの少年に手も足も出ず、完膚なきまでに叩きのめされたあの日の屈辱。
自分を嘲笑うような少年の冷酷な笑顔が脳裏に過るたび、全身の血が逆流するほどの激しい怒りが胸を焦がす。
この件だけは、星菜自身の手で、あの少年の歪んだ笑顔を文字通り叩き割り、へし折られたプライドを取り戻さなければならない。さもなければ、彼女の時間は一生止まったままだ。
焦燥感と憎悪に背中を押されるようにして、星菜はさらに不気味な倉庫地帯の奥深くへと足を踏み入れていく。
『――おや? 誰かと思えば、この間の負け犬の女の子じゃないか』
ゾクリ、と。
背筋を這い上がってくるような、聞き覚えのあるおぞましい声音が響いた。
星菜が弾かれたように顔を上げると、錆びついた巨大クレーンの上に、青白い月明かりを浴びた一人の少年が腰掛けていた。
暗闇の中から這い出るようにして、少年の背後から黒く不快な、ドロドロとした触手がウネウネと蠢き始める。
『あはは、僕を殺しに来たの? いいねぇ、そのドロドロに煮詰まった極上の負の感情……! 歓迎するよ、僕のステージへ!』
「黙れ……死ねぇぇぇっ!!」
星菜は理性を完全に失い、魔力を狂暴に爆発させて少年に向かって一直線に地を蹴った。
月菜たちが何も知らずにこちらへ向かっている、その裏では星菜の暴走に近い孤独な死闘が静かに幕を開けてしまった――。




