28話 二学期始動。
――夏休み、終了のお知らせ。
そんな無慈悲なアナウンスが、今朝の俺の脳内で静かに、しかし確実に響き渡っていた。
カレンダーの枚数は心もとなくなり、窓から吹き込む風は相変わらずぬるい。
いや、ぬるいどころか普通に熱い。
九月とは名ばかりで、クーラーは未だ現役フル稼働中。外からは往生際の悪いセミの鳴き声が、ジリジリと鼓膜を焼いてくる。
――そう、今日から二学期が始まるのだ。
学生にとっての平穏の終焉。
そして、地獄の幕開けである。
とはいえ、ひとつだけ救いはあった。
月菜の夏休みの宿題は、昨日の夜――というかほぼ深夜――に無事終わったのだ。
あれだけ騒いでいた自由研究も読書感想文も、俺の全面バックアップ(という名のほぼ代筆に近い介護)のもと、なんとか提出可能な形にはなっている。
これで心置きなく新学期を迎えられる――
はずだったのだが。
「むにゃむにゃ……あ、そこはイチゴ味で……」
……問題が一つ。
俺のベッドの上で、堂々と眠りこけている奴がいる。
言うまでもなく、妹様である。
横向きになって俺の枕をがっしりホールドし、規則正しい寝息を立てているその姿は、まあ……寝言は気になるが、寝てさえいれば可愛い妹だ。
――だが、問題はそこじゃない。
「……なんで俺の部屋で寝てんだよ、お前は」
昨日、宿題のラストスパートで力尽きたのは覚えている。
テーブルに突っ伏したままピクリとも動かなくなった月菜を、仕方なく俺が部屋まで運んだ――まではいい。
問題はそのあとだ。
なぜかこいつが俺のベッドを占領している。
主であるはずの俺は床だ。固いフローリングの感触が、今も腰に鈍痛として残っている。
理不尽、極まれりである。
……まあいい。今はそれどころじゃない。
何気なく視線を壁の時計へ向ける。
秒針が刻むチクタクという音が、妙に大きく聞こえた。
――七時四十分。
「…………」
一瞬、思考がフリーズする。
そして次の瞬間、脳がフル回転で現実を叩きつけてきた。
始業式の登校時間――八時十五分。
いつもなら、とっくに家を出ている時間だ。
なのに今の俺たちは、絶賛パジャマ姿。
「…………は?」
声にならない声が漏れる。
いや、待て。落ち着け。まだ間に合う可能性は――
……あるわけねえだろ!
「おい、起きろ月菜! 新学期初日から遅刻確定だぞ!」
ベッドに駆け寄り、その細い肩を掴んで揺さぶる。
「うぅ……あと五分……延長……」
「五分でどうにかなる状況じゃねえ! タイムオーバーだ!」
「お兄ちゃん……数学の怪人が……分度器持って追いかけてくるの……」
「そんなピンポイントに嫌な怪人いるか!」
前後にがくがくと揺さぶると、ようやく月菜の瞼が持ち上がる。
ぼんやりとした視線が焦点を結び――
時計を見た瞬間、完全に覚醒した。
「……なな、七時四十分!? うそ、嘘っ!? 始業式って今日なの!?」
「今日だよ! 二学期スタートだ!」
「いやああああああっ!?」
部屋に響き渡る絶叫。
近所迷惑なんて概念は、今この瞬間消え去っていた。
ここからは、まさに戦争だった。
「お兄ちゃん! 私の制服どこ!? この前部活で着たやつ!」
「リビングのソファに脱ぎっぱなしだっただろ!」
「ああっ、靴下が片方ない! 神隠し! こんな時に神隠し!」
「いいから別の履け!」
「宿題のノート! 入れた!? 入れてない気がする! 私の努力がああああ!」
「俺が全部カバンに詰めた! 俺を信じろ!」
「さすがお兄ちゃん! 略してさすおにっ!」
「略すな!」
階段を駆け下りながらの会話は、もはや事故だ。
洗面所に突撃し、歯ブラシを咥えたまま顔を洗う。
鏡に映る自分たちは、髪は跳ね、目は半開き。
どう見ても“爽やかな新学期”の象徴ではない。
「やばい、寝ぐせが大惨事!」
「そのまま行け! そういう髪型だと思え!」
「乙女としてアウトでしょ!?」
「遅刻の方がアウトだ!」
タオルで適当に髪を押さえつけ、制服を引っ掴む。
リビングには、トーストが一枚ぽつんと置かれていた。
焼いた記憶はないが、多分昨夜の俺だ。
グッジョブ、過去の俺。
「ほら、これ食え! 走りながらな!」
「えっ、咥えるの!? 令和でこのテンプレやるの!?」
「いいから行くぞ!」
「これで曲がり角で誰かとぶつかったらどうするの!?」
「そいつも遅刻寸前だ、放っとけ!」
玄関のドアを勢いよく開け放つ。
九月とは思えない熱気が、一気に流れ込んできた。
――夏は、まだ終わっていない。
そして。
「急げ月菜! 本気で全力疾走だ!」
「待ってよお兄ちゃーん! バターが! バターが垂れるぅー!」
俺たちの二学期は――
どうやら、静かなスタートとは無縁らしい。




