27.5話 エンドレスサマー(夏休みの宿題)②
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気がつけば、窓の外はすっかり濃い藍色に飲み込まれていた。
昼間、あんなにやかましかった蝉の声はどこへやら。 代わりに、涼やかな秋を予感させる虫の音が、遠くからかすかに響いている。
「……つかれたぁ……」
月菜が机に突っ伏したまま、魂の最後の一滴を絞り出すような声を漏らした。
「そりゃあな。ぶっ通しで三時間だぞ」
壁の時計を見ると、針はもう夜の時間を示していた。
結局、思ったよりは進んだが、山積みの宿題が「終わった」と言えるには、まだ数合目といったところだ。
「今日はここまでにするか」
「……ほんと? もう解放してくれるの?」
ぴくっと、ポニーテールの先が跳ねるように顔を上げた。
「ああ。これ以上やっても月菜の脳みそがオーバーヒートして爆発するだけだ」
「やった……。今なら数学の学者さんになれる気がする……」
そのまま、糸の切れた人形みたいにぐったりと机に溶けていく。
「その代わり、明日もやるからな。朝からフル稼働だぞ」
「えぇ……。せめて午後、いや夕方から……」
「やらないと終わらん。二学期が始まって早々廊下に立たされたいのか?」
「うぅ……」
不満げに頬を膨らませながらも、食い下がってこない。
……どうやら、少しは危機感が芽生えたらしい。
「風呂、先入るか? 汗かいただろ」
「うん……行きたい」
「分かった。準備しとくから、少し休んでろ」
椅子を引いて立ち上がり、月菜の部屋を後にする。
リビングの明かりを点けると、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
机の端に置きっぱなしにされたコップ。
麦茶の中でカランと鳴っていたはずの氷は、とっくに溶けて姿を消している。
風呂の準備を済ませ、呼び戻しに部屋へ戻ると、月菜はまだ机に向かっていた。
けれど、さっきまでの脱力感は消えており、月菜は一点を見つめるように、自分の問題集をじっと眺めていた。
「……どうした?」
「んー……」
月菜は顔を上げると、気恥ずかしさを隠すように、少しだけ悪戯っぽく笑った。
「さっきの問題、もう一回だけ自力でやってみてた」
「……へぇ」
背後からノートを覗き込む。
そこには、さっき教えたはずの解法が、さらに丁寧な筆致で再現されていた。
迷ったような消し跡はあるけれど、導き出された式には確かな意思が宿っている。
「どう? 合ってるでしょ?」
「……ああ。完璧だ。さっきよりずっと綺麗に解けてる」
「えへへ、でしょ?」
誇らしげに鼻を鳴らして、月菜は今度こそペンを置いた。
「……なんかさ。ちょっと分かると、ほんのちょっとだけ、楽しいかもって思っちゃった」
「それが勉強の醍醐味だ。……まあ、宿題が終わればの話だけどな」
「最初からそう言ってよー。お兄ちゃんの説明がスパルタすぎるから、楽しさに気づくのが遅れたじゃん!」
「言っても信じなかっただろ、お前」
そもそも月菜は地頭は良い方でしっかり勉強すればそこそこの点数は取れるはず。
「それはそうだけど!」
あっけらかんと認めて、月菜は椅子から立ち上がった。
その足取りは、昼間よりもずっと、夏の夜の風のように軽やかだった。
「お風呂、いただきまーす!」
ぱたぱたと廊下を駆けていく音。
一人残された静かな部屋で、俺は月菜が座っていた椅子に腰を下ろした。
机の上には、戦いの跡のような消しゴムのカスと積まれた問題集。
決してスマートじゃないし、効率がいいとも言えないけれど。
「……ちゃんとやってるじゃねぇか」
誰に聞かせるでもなく、ぽつりと呟く。
窓から入り込む夜風が、カーテンを優しく揺らした。
夏休みは、もうそんなに長くはない。
けれど、こうやって一歩ずつ、泥臭く積み重ねていけばこの長い夏も笑って締めくくれるはずだ。
ーーー多分。
「……さてと」
自分もノートを閉じ、部屋の明かりを落とす。
明日もまた、同じように。
隣で頭を抱える妹に、やれやれと肩をすくめながら付き合うんだろう。
――そんな明日を予感しながら、俺はゆっくりと扉を閉めた。




