27.5話 エンドレスサマー(夏休みの宿題)
「……終わる気がしないよぉ……」
机に突っ伏した月菜が、完全に魂の抜けた声を出した。
もはや成仏を待つ幽霊に近い。
「いや、あと一週間で夏休み終わるぞ。ここで諦めたら補習コース直行だ」
カラン、と氷の鳴る音。
麦茶の入ったグラスを机に置くと、月菜は前髪の隙間から恨めしそうにこちらを仰ぎ見てきた。
「だって量がおかしいもん! これ絶対、先生たちが裏で結託して【生徒の絶望が見たい同盟】とか組んでるって!」
「陰謀論やめろ。お前が八月中に一文字も書かなかったツケだろ」
目の前には、開きっぱなしの数学の問題集。
現実はなかなか、というか絶望的に厳しい。
「お兄ちゃん……手伝って……」
「ダメだ」
「即答!? 慈悲はないの!?」
「これはお前の宿題だろ。俺が解いたらお前の頭は空っぽのままだ」
「でもでも! ヒントくらいなら! お兄ちゃんの脳みそを、ほんの数パーセント貸してくれるくらいなら!」
「……ヒントならいい」
「やったぁ!」
さっきまでの瀕死状態はどこへやら。
月菜はぱっと顔を上げると、現金なほど満面の笑みを浮かべた。
ほんと、分かりやすい奴だな。
「ほら、どこだ」
「ここ! この二次関数の応用!」
差し出されたページを一瞥して、俺は軽く頷く。
「なるほどな。じゃあ、まずは何を求めたいかだ。この式の正体を見やすくするんだよ」
「見やすく……?」
「やり方はさっき言った通りだ。平方完成、覚えてるな?」
「……う、うーん……」
月菜は眉を寄せ、再びノートとにらめっこを始めた。
答えを教えるのは簡単だ。だが、それでは夏休み後の【ラスボス(試験)】でこいつが泣くことになる。
「分かんなくなったら止まっていい。そこから一緒に考えるから」
「……うん」
小さく返事をして、月菜がシャーペンを握る。
カリ、カリ……。
控えめな筆記音だけが、午後のリビングに響く。
さっきまでの騒がしさが嘘みたいに、部屋の空気が静まり返った。
窓の外から聞こえる蝉の声すら、どこか遠くに感じる。
少しだけ、世界から切り離されたような、緩やかな時間。
「……あ」
不意に、月菜の手が止まった。
「どうした」
「……ここから先、どうすればいいか分かんない」
おずおずと、ノートがこちらに寄せられる。
「どこまでやった?」
「ここまでは、たぶん合ってる……と思う。たぶん」
自信なさげな上目遣い。
けれど、ノートには迷いながらも自力で引いた等式が並んでいた。
「合ってる。ここまでは完璧だ」
「ほんと……?」
「ああ。じゃあ次は――どうすれば頂点が見えてくると思う? ヒントはもう、さっきの式の中に隠れてるぞ」
「うー……」
唸りながら、月菜はもう一度ペンを動かす。
止まって、迷って、消しゴムをかけて、少しだけ進む。
時間はかかっているが、確実に正解への距離を詰めていく。
そして、数分後。
「……できた、かも」
おそるおそる差し出されたノート。
字は少し躍っているし、消し跡だらけで決して綺麗とは言えない。
それでも――
「正解だ。お疲れ」
「……っ、ほんとに!?」
「ああ。ちゃんと自分の力で辿り着いたな」
一瞬、きょとんとして。
次の瞬間、弾けるような笑顔が咲いた。
「やったぁぁぁ! 私天才かも!」
そのまま、勝利の余韻に浸るように机に突っ伏す月菜。
「はいはい、まだ一問目だけどな」
「もう今日はこれでおしまいで良くない?」
「ダメだ。出来るだけ進めるぞ」
「えぇー……鬼! お兄ちゃんの鬼!」
口ではぶつくさ言いながらも、月菜はちゃんとペンを持ち直した。
その背筋は、さっきよりほんの少しだけ伸びている。
俺は冷めた麦茶を一口飲み、その横顔を眺めた。
遠くで鳴く蝉の声。
夏休み終了まで、あと七日。
全部終わる保証なんてどこにもないけれど。
こうして隣で悪戦苦闘しているやつがいる限りは最後まで付き合ってやる以外の選択肢は最初から持ち合わせていなかった。
「……ほら、次。このグラフの動きを見てみろ」
「はーい……今度は優しく教えてね、お兄ちゃん」
気の抜けた返事と再び刻まれるシャーペンの音である。




