再会と過去の記憶
私はかつて、果てしない暗闇の檻に閉じ込められていた。
あの日、私は病室を抜け出した。
息が詰まるほど重苦しい病室の空気に耐えられず、広く静まり返った病院の廊下を、ただ当てもなく歩いていた。心の奥底で荒れ狂う虚無感と、行き場のない茫然自失を少しでも鎮めたかったのだ。
廊下の突き当たり、窓際に一つの人影があった。
青白く、今にも透き通ってしまいそうな肌をしたその人物の前に、私と同じくらいの年頃の少年が立っていた。
白い人影は少年を見つめ、その眼差しには限りない優しさが宿っていた。指先で何度も、慈しむように少年の髪を撫でている。
遠くからその光景を眺めながら、私の胸の奥では激しい嫉妬が渦巻いていた。
何度も願ったことがある。
私が迷い、途方に暮れている時にも、誰かが優しく頭を撫でてくれたら。たった一人で治療を乗り越えたことを、誰かが褒めてくれたら。
そんな人が、私にもいてくれたなら。
黒髪の少年もまた、同じ病院に入院している患者だった。窓から差し込む月明かりが、彼の黒髪に淡い銀色の輝きを添えていた。
私は彼に近づき、名前を尋ねようとした。
しかし、その前に白い人影が私の行く手を遮った。
彼が私の額にそっと手を触れた瞬間、重い眠気が四肢に広がっていく。身体の自由が失われ、私はその場にゆっくりと倒れ込んだ。
意識が薄れていく中、遠くから少年と白い人影が言葉を交わす声が聞こえた。
けれど、その声は厚い霧に遮られているかのように曖昧で、一言も聞き取ることができなかった。
やがて私の意識は、底の見えない暗い海へと沈んでいった。必死にもがき、手足を動かそうとしても、波紋一つ起こすことすらできない。
ただ、無力なまま沈んでいくしかなかった。
再び目を開けた時、少年の澄んだ声が、散らばっていた私の意識を現実へと引き戻した。
目の前に立っていた黒髪の少年は、昨夜、病院の廊下で目にした出来事を決して他人に話してはならないと告げた。
もし秘密が漏れれば、取り返しのつかない事態を招くことになる、と。
私は黙ってうなずいた。
あの時の私には、拒否する余地などなかった。
少年の顔は濃い黒髪に覆われ、その表情をはっきりと見ることはできなかった。結局、最後まで彼の名前を尋ねることもできず、私は彼と別れた。
そして今、ようやく私はあの少年の正体を知った。
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朝の光が差し込み始めた頃、佐天千代は早々に起き出し、朝食の準備を整えていた。
その表情には、隠しきれないほど穏やかな喜びが浮かんでいる。長い間、心に引っかかっていた疑問にようやく答えが見つかったことで、彼女の胸には確かな安堵が広がっていた。
湖畔では、天木が静かに釣り糸を垂らしていた。
柔らかな朝日が彼の姿を包み込み、周囲の景色まで温かく穏やかなものに見せている。
千代は私に声をかけ、先に馬車へ戻って朝食を取るよう促した。
間もなく、私と佐天千代は先に席に着き、用意された簡素な朝食を口に運び始めた。
「どうして私たちを待たずに食べ始めたの?」
徐敏芊がゆっくりと歩み寄ってきた。眉間には、わずかな困惑が浮かんでいる。
これまでの旅路で、佐天千代は無意識のうちに彼女と衝突することが多かった。ところが今日は一転して、誰に対しても穏やかで、いつも以上に優しく接している。
「徐さんもどうぞ。一緒に食べましょう」
千代は身体を少し横にずらし、隣の席を空けた。
「それじゃあ、遠慮なく」
徐敏芊は少し不思議そうにしながらも、静かに腰を下ろした。
全員が朝食を終えた頃、雷葛が私に声をかけてきた。
「前方に小さな町がある。少し休憩していかないか?」
私は軽くうなずいた。
旅の楽しみは目的地にたどり着くことだけではない。道中の町を訪れ、そこで暮らす人々や土地の文化に触れることも、旅の醍醐味の一つだ。
とはいえ、内心では行程が予定より遅れてしまうことを少し気にしていた。
毒虫迷宮は冠陽市郊外、奥深い山中にひっそりと隠されている。その場所は非常に分かりにくく、内測時に偶然発見していなければ、普通のプレイヤーが自力でたどり着くのは困難だっただろう。
「毒虫迷宮の内部に生息する魔物は、どれも危険度が高い。少しでも油断すれば、あっという間に全滅しかねん」
雷葛が重々しい口調で忠告した。
「天木、どう攻略するつもりなの?」
徐敏芊が私を見上げた。その瞳には、わずかな不安が滲んでいる。
「魔猿を主力にして、俺自身の死霊術と黒泥操作を組み合わせれば、内部の魔物にも十分対処できる。お前たちは迷宮の入り口で待機していればいい。無理に奥までついてくる必要はない」
私は少し間を置いてから続けた。
「単独での完全攻略は難しいと何度も話しているが、迷宮の構造も魔物の習性も、すでに把握している。そこまで心配する必要はない」
「……わかった」
徐敏芊は小さくうなずいた。
しかし、その表情から不安が消えることはなかった。何か言いたげに唇を動かしては、結局、言葉を飲み込んでしまう。
「どうした、芊芊?」
私は彼女の様子に気づき、声をかけた。
「何でもないの。ただ……私って、あまりにも役立たずだなって思って」
徐敏芊は視線を落とした。
「いつもあなたの後ろについていくだけで、何もできていない。まるでチームのお荷物みたい」
私は彼女の気持ちを察した。
幼い頃から交友関係が狭く、自分の考えや意見を積極的に表現することにも慣れていない。長い間、周囲の人間に支えられてきた彼女は、自分で判断し、行動することにまだ自信を持てずにいるのだろう。
だが、それは彼女が何もできないという意味ではない。
「お前はもう何度も俺を助けてくれた」
私は彼女の目を見て、ゆっくりと言葉を続けた。
「天馬公会に潜入して情報を集めた時も、月蛇や魔猿との危険な戦いの時も、お前はいつも真っ先に俺たちを治療してくれた。俺にとって、お前はどんな計画を進める上でも欠かせない存在だ」
少し間を置き、声を和らげる。
「だから、自分が足を引っ張っているなんて思わなくていい。むしろ、俺はお前がそばにいてくれることに心から感謝している。幼い頃のあの暗く辛い日々も、お前がいてくれたから乗り越えられたんだ」
徐敏芊の瞳に、かすかな光が戻った。
彼女は顔を上げ、真剣な眼差しで私を見つめる。
「私、もっとしっかりして、強くなってみせる。いつか必ず、あなたを守れるようになりたい。それに、日常生活のことも少しずつ覚えていくわ。例えば……料理とか」
「お嬢様が料理を覚える必要なんてありませんよ。そういった雑事は私と天木に任せてください」
佐天千代が横から穏やかに口を挟んだ。
「嫌よ。好きな人のために、自分の手で料理を作る。それだけで幸せなことだもの。それは母から教わったことよ」
徐敏芊は静かに首を振った。その言葉には、いつになく強い意志が込められていた。
その言葉を聞いた瞬間、私の記憶は遠い昔へと遡った。
幼い頃、私は確かに徐敏芊の母親と会ったことがある。
彼女は普段から多忙で、祝日や祭日の時にようやく少しの休みが取れる程度だった。
一度、彼女の体調が優れず、ちょうど徐恺墨にも手が離せない事情があったため、私が別荘で彼女の世話をしたことがある。
彼女は徐敏芊と同じ漆黒の長い髪を持ち、瞳は柔らかなピンク色をしていた。仕事の都合で髪を短くしていたものの、その姿には変わらない優しさと美しさがあった。
あの日、私は徐敏芊と一緒に料理を作った。
あの時の細やかなやり取りや、何気ない温もりは、今でも鮮明に記憶に残っている。
「一緒に、お母さんのために愛情たっぷりの朝食を作ってみないか?」
私は彼女に提案した。
「いいね! でも、私、料理なんて全然できないの。普段は全部、料理人さんに任せているから」
「君は隣に立って、食材や道具を渡してくれるだけでいい。料理人にはもう話を通してある。それに、昔、別荘で働いていた頃は、君たちの食事の世話も仕事の一つだった。俺の腕を信じてくれ」
「わかった。でも、いつか自分でお母さんにお粥を作れるようになりたいから、隣で教えてくれる?」
「もちろんだ。温かい海鮮粥にしよう」
そこまで思い出したところで、記憶は突然途切れた。
徐敏芊の母親に関するそれ以上の記憶は、どれだけ思い出そうとしても浮かんでこなかった。
まるで、何者かによって意図的に消されてしまったかのように。
幸い、それ以外の人々との記憶や、彼らと過ごした日々は今も鮮明に残っている。
そもそも、彼女の母親と直接言葉を交わした機会は、それほど多くなかった。
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馬車は揺れ続け、単調な移動がまた一日続いた。
一月八日。
道中、私たちは黒い服をまとった年配の老人に出会った。
老人は馬車の前に立ちはだかると、自分の身に起きた出来事を切々と訴え始めた。
「つまり、魚を売りに出かけた帰りに追いはぎに襲われ、危うく野垂れ死にするところだった。そこを偶然、私たちに助けられた……ということですか?」
私は念を押すように尋ねた。
この老人もまたプレイヤーだった。
しかし、個人情報は何重にも暗号化されており、意図的に身元を隠しているように見えた。それだけでも、私に警戒心を抱かせるには十分だった。
「そうだとも。私は釣り人でね。獲れた魚を街の商店に売りに行こうとしていたんだ。ところが途中で追いはぎに遭ってしまってね。いやあ、君たちに出会えて本当に助かったよ。ところで、君たちはこれからどこへ向かうんだい?」
「冠陽市です。少し用事がありまして。もしかして、同じ方向ですか?」
「ああ、そうなんだ。よければ、馬車に乗せてもらえないかね? 商店の主人と魚の取引について話をつけなければならなくてね」
老人の話を聞くほどに、私はこの人物に対する疑念を深めていた。
どうにも、ただの善良な老人とは思えない。
とはいえ、相手は年老いた老人だ。事情も分からないまま無下に断るのは、どうしても気が引けた。
「乗せていくこと自体は構いません。ただ、一つ質問させてください。あなたは『黒濯塵』という名前を知っていますか?」
老人はその名前を聞いた途端、眉をひそめた。目には明らかな不信感が浮かんでいる。
どうやら、私が冗談を言っていると思ったらしい。
「若いの、そんな冗談はよしておくれ。黒濯塵といえば、このゲームでも五指に入る実力者だ。最近では、各ギルドが彼に関する情報を公開しているほどだからね」
老人はゲーム内に公開されている情報ページを見せてくれた。
そこには、数枚の不鮮明な写真が掲載されていた。
その中には、私が初めて魔猿と戦った時の写真も含まれている。しかし、どれも正面から撮影されたものではなかった。
「どうして正面から撮影された写真がないんです?」
「それが、あいつは自分の痕跡を消すのが実にうまくてな。外部に知られている装備も二種類だけだ。死霊戦士の鎧と、ありふれた革装備くらいのものさ」
「なるほど。私はガル・スノーといいます。各国を渡り歩いている商人です。では、冠陽市へ向かいましょう」
そうして私たちは、老人を馬車に乗せて再び出発した。
道中、老人は自分の過去の経験を延々と語り続けた。その話しぶりは実に熱心で、私たちは彼の珍しいおしゃべりに水を差さないよう、静かに耳を傾けていた。
一月八日、冠陽市はもう目と鼻の先だった。
以前から聞いていた通り、コルビー地方は乾燥しており、雨が少ない。一方で地下資源には恵まれている。
そのため、水魔法使いはこの地域で特に重宝され、厚遇を受けていた。
私には、この冠陽市で水魔法を頼りに身を立てている旧友が一人いる。
「もうすぐ町に着くぞ、小僧」
雷葛が馬車の前方の布をめくり、声をかけてきた。
私は前方に目を向けた。
そこに広がっていたのは、想像以上に近代化された都市の姿だった。
コンクリート造りの建物が立ち並び、通りには豪華な礼服を身にまとった裕福なプレイヤーたちが行き交っている。
私は心の中で小さく感嘆した。
こうした繁華街の景色は、これまでにも何度か目にしている。特別珍しいものではない。
しかし、この華やかな冠陽市の表面には、私が想像していた以上に深い闇と陰謀が潜んでいた。
馬車が街の入り口に到着すると、私たちは順番に降りた。
老人は別れ際になっても友達申請をしたいとしきりに頼んできたため、私はそれを承諾した。
やがて彼は手を振り、ゆっくりと立ち去っていった。
「そうだ、若いの。君は魚釣りができるのかい?」
老人はふと思い出したように振り返って尋ねた。
「多少は。以前、知り合いに頼まれて手伝ったことがあります」
「そうか。もしこれからの旅で疲れたり、金に困ったりすることがあれば、いつでも連絡しておいで。一緒に山へ釣りに行こうじゃないか」
「お気遣いありがとうございます。ただ、今の私の周りには、すでに真剣に私を気遣い、支えてくれる人たちがいます」
私はゆっくりと周囲を見渡した。
徐敏芊と佐天千代は、私の人生においてかけがえのない存在だ。そして雷葛もまた、長い旅路を共にしてきた信頼できる相棒である。
老人も私の視線を追い、彼女たちと雷葛の姿を確認すると、どこか納得したように穏やかな笑みを浮かべた。
「そうか。それなら安心だ」
そう言い残し、老人はゆっくりと人混みの中へ消えていった。
「さて……君も出てきていいぞ」
私は小さく呟いた。
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夜が訪れ、私たちは今後の予定について話し合っていた。
雷葛と相談した結果、冠陽市で鍛冶屋を一軒買い取ることにした。職人を雇い、弟子を育成するためだ。
この地域は鉱業が盛んで、製鉄や鍛冶の基盤も整っている。魔物の素材を長期的に収集し、それを利用して装備を製造するという私たちの目的には、まさにうってつけの場所だった。
私たちは一緒に鍛冶屋を訪れ、元の店主と買収について交渉した。
雷葛と二人で話を進めた結果、無事に合意を取り付けることができた。
元の工房で働いていた職人たちは、そのまま新しい工房のスタッフとして雇用することになった。
ただし、全員に統一された技能研修を受けてもらい、一定の基準に達しなかった者については雇用を見直す方針とした。
少々厳しい措置ではあるが、工房を長期的に運営していくためには必要なことだ。
この時点で、まだ午後五時を少し回った程度だった。
残りの用事を済ませるには十分な時間がある。
綿花の販売は佐天千代と徐敏芊に任せ、私は一人で宿の手配をすることにした。
街の中心部にある宿へ向かい、豪華な客室を一室、一般的なシングルルームを三室予約した。保証金を支払い、手続きを済ませてから二人のもとへ戻った。
鍵の受け取り場所を伝え、千代が綿花の販売を無事に終えていたことを確認し、ようやく一息つくことができた。
そして、雷葛にはちょっとしたサプライズを用意していた。
「俺は先に行く。二人とも、雷葛のことを頼むぞ」
「任せて!」
二人の少女が声を揃えて答えた。
私は一人で雷葛のところへ向かい、宿の客室引換券を彼に手渡した。
「これを持っていけ。宿のフロントで見せれば、きちんと案内してくれる」
「お前……まさか、俺のために豪華な客室を一人分用意したのか? 何日分だ?」
「保証金だけ先に払ってある。残りは後で精算すればいい。心配するな。ただし、宿のサービスに浮かれて、無駄遣いしすぎないように気をつけろよ」
「お前はこれからどこへ行くつもりだ?」
「当ててみろ」
「はあ……まあ、好きにしろ。だが、くれぐれも気をつけろよ」
「今から迷宮へ向かうわけじゃない。まだ早すぎるからな。昔の知り合いに会いに行くつもりだ」
「それならいい。あまり夜更かしするなよ。そうしないと、あの二人が一晩中そわそわして眠れなくなるぞ」
私は答える代わりに軽く笑い、手を振って雷葛と別れた。
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私は冠陽市の入り口付近へと戻った。
すでに空は完全に暗くなり、街のあちこちに明かりが灯り始めていた。
冠陽市を支えるもう一つの主要産業が、まさに今、活気づく時間帯だった。
この国では賭博が合法とされており、街には大小さまざまなカジノが点在している。
そして、私の旧友もまた、この街で大規模なカジノを経営していた。
カジノの扉を押し開けた瞬間、さまざまな臭いが入り混じった空気が鼻をついた。
煙草、紙幣、酒。
チップのぶつかり合う音や、客たちの騒がしい声が絶え間なく響いている。
あまりにも喧騒に満ちた場所だ。正直なところ、長居するつもりはなかった。
事前に訪問することを伝えていたため、私はそのまま廊下を進み、友人の執務室へ向かった。
扉は半開きになっており、クラムキーが廊下に出て、あちこちを見回しながら私を待っていた。
私が手を振って合図すると、彼はすぐにこちらへ駆け寄ってきた。
「まさか、お前がこの街に戻ってくるとは思わなかったよ。まずは執務室でゆっくり話そう」
「ああ」
カジノの客たちの視線を浴びながら、私たちは二人で執務室へと向かった。
クラムキーは二十四歳のエジプト系の青年だ。褐色の肌に、整えられた白い長髪がよく似合っている。
「今や、お前はゲーム全体でも有名な人物だ。全サーバーのプレイヤーがお前に懸賞金をかけているらしいぞ」
「それもGMが無理やり天冠位の称号をつけたおかげだな。幸い、称号は変更できる。もし今も天冠位のままだったら、冠陽市に堂々と入ることさえ難しかっただろう」
「実を言うと、俺はもう、とっくに争いごとには興味を失っている。あの人が亡くなってから、誰かと深い絆を結ぶことも避けるようになった」
私は彼の言葉を聞き、少しだけ表情を曇らせた。
「余計なことは考えるな。俺がこんな危険な道を選んだのは、すべて自分自身のためだ。お前はここでカジノを経営し、穏やかに暮らしていればいい。わざわざ面倒な争いに首を突っ込む必要はない」
「俺だって内部テストを経験しているんだ。誰かが騒ぎを起こしたところで、対処する方法くらい分かっているさ。忘れるなよ。冠陽市の水源は、俺が水系統の専用スキルを使って、干上がっていた川を改造したものだ。この街の人間は、みんな俺に恩がある」
「その通りだ。まさにクラムキー様の特殊な魔法があったからこそ、冠陽市にこの『ナイル川』が生まれたんだからな」
私は軽く相槌を打った。
その後も、私たちはしばらく話し続けた。
昔の出来事から最近の状況まで、話題は尽きなかった。気がつけば、かなりの時間が経過していた。
「それにしても、お前には到底及ばないけどな。そうだ、今夜は俺がおごるよ。一緒に夕食でもどうだ?」
「もう宿を予約してある。そろそろ戻って休むつもりだ。また時間ができたら顔を出すよ。そういえば、以前頼んでおいた件はどうなった?」
「ああ、あれか。安心しろ。最近、古い文献を調べていたら、関連する記録を見つけた。もう少しで手がかりをつかめそうだ」
「助かる。手間をかけて悪いな。もう遅いし、今日はこの辺で失礼するよ」
私たちは別れを告げ、それぞれの道へと戻った。
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宿へ戻る道すがら、私はふと、幼い頃の暗く辛い記憶を思い出していた。
かつて私は叔母の家で、休む間もなく重労働を課せられていた。あの家が抱えていた莫大な借金を少しでも返済するため、毎日働かされていたのだ。
叔父はひどく素行が悪く、酒と煙草に溺れ、毎日のようにギャンブルに興じていた。時には私をあちこちの臨時仕事に駆り出すことさえあった。
叔母もまた冷淡だった。食事の量を意図的に減らされることも珍しくなかった。
もし雷葛が時折こっそり食べ物を分けてくれなかったら、私はあの暗い日々の中で、本当に飢え死にしていたかもしれない。
あの家は、まさに地獄だった。
なぜ父には、あんなにも冷酷で無情な親戚がいたのか。今でも理解できない。
しかし、振り返ってみれば、私の人生には救いもあった。
徐敏芊の家族、雷葛、クラムキー。
私に善意を示し、手を差し伸べてくれた人々がいたからこそ、傷ついた心と身体を少しずつ癒やすことができたのだ。
私は予約していた宿に戻り、簡単に食事を済ませてから、自分の豪華な客室へ向かった。
部屋の扉の前まで来た時、廊下の曲がり角で二つの細い人影が行ったり来たりしているのが目に入った。
思わず小さく笑みがこぼれる。
私は壁の陰に身を隠したまま、二人に戻ってきたことをメッセージで知らせた。
メッセージが届いた途端、二人の顔にはぱっと明るい笑顔が広がった。
私はゆっくりと壁の陰から姿を現し、二人を見つめた。
ちょうど振り返った彼女たちと視線が合う。
その距離は、もう一メートルもなかった。
「あれ? もう戻ってきたの?」
徐敏芊が少し驚いたように尋ねた。
「さっきから、二人が曲がり角を行ったり来たりしているのが見えていたよ。とりあえず、中に入ろう」
私は鍵を開けて客室に入り、二人を先に招き入れた。
室内の照明をつけると、落ち着いた雰囲気の内装が目に入る。
「二人とも、もうお風呂は済ませたのか? ほのかにいい香りがするな」
二人は顔を見合わせてから、そろってうなずいた。
「俺も後で軽く身体を洗うつもりだ。ところで、わざわざここで待っていたのは何か用事でもあったのか?」
「別に大したことじゃないの。ただ、あなたがなかなか戻ってこないから心配していただけ。それより、さっき会ってきた友人ってどんな人なの?」
「気になるのも無理はないな。彼は長年ネット上で付き合いのある旧友で、このカジノを経営しているんだ。今日は以前頼んでいた用事を直接確認しに行っただけだよ」
私はそこで、佐天千代に視線を向けた。
「どうした、千代。もしかして、焼きもちを焼いているのか?」
「ち、違うわよ! ただ、相手がどんな人なのか、性別くらいは確認しておきたかっただけ!」
佐天千代は耳の先を赤くし、わざと視線をそらした。
「男性だよ。やっぱり焼きもちだったんだな。安心してくれ。俺はあちこちで人を口説くような軽薄な人間じゃない」
「天木、あなたって、そういうことを何気なく言うから困るのよ」
徐敏芊が小さく笑いながら口を挟んだ。
「何気なく言っているつもりなんだがな」
「そういうところよ。あなたは何気ない一言で、人の心を簡単に揺さぶってしまうの。でも、安心して。あなたは私一人だけのものだから」
「はいはい、おっしゃる通りです、お嬢様」
私は苦笑しながら答えた。
「そうだ、もう遅いし、あなたに一つあげたいものがあるの」
徐敏芊はそう言うと、つま先立ちになった。
柔らかな唇が、そっと私の頬に触れる。
そして半歩下がると、真っ赤になった頬を隠すこともなく、まっすぐに私を見つめてきた。
私は自然と手を伸ばし、彼女の頭を優しく撫でた。
幼い頃、一緒に過ごしていた時から、何度も繰り返してきた仕草だ。今ではすっかり習慣になっていた。
「それじゃあ、私は自分の部屋に戻って休むね」
「ああ。おやすみ、芊芊」
徐敏芊は嬉しそうに微笑み、客室を後にした。
扉が静かに閉まる。
その場に残った佐天千代は、しばらく何も言わずに立ち尽くしていた。
眉間には、わずかな憂いが浮かんでいる。何か長い間胸の奥にしまい込んできた想いがあるようだった。
私は彼女の表情を見つめ、静かに尋ねた。
「どうした? 何か気になることでもあるのか?」
「あの青白い人影……あれは何者だったの?」
千代は静かな声で尋ねた。
「君は、あの病院の廊下での出来事をずっと忘れずにいたんだな」
「あなたは秘密を守るために、私を殺すつもりなの?」
「さて……今となっては、君を生かしておくと思うか?」
私が探るように言うと、千代の身体がぴたりと固まった。
その瞳には、隠しきれない恐怖が浮かんでいる。
「……冗談だ」
私はすぐに表情を和らげた。
「どうして俺が君を傷つけなければならない? それに、君は俺がそんなことをする人間だと思っているのか?」
「でも、あの日のことを誰かに知られたら……」
「君が心配していることは分かっている。だが、実を言えば、あの日から俺は君の記憶を消すつもりはなかった」
「どうして? もし私がうっかり秘密を漏らしてしまったら、取り返しのつかないことになるかもしれないでしょう?」
「君は俺の名前を知っているか? 俺の顔をはっきりと見たことがあるか? それに、あの白い人影の正体を本当に理解しているか?」
「……いいえ。あの廊下で会った時、私は何も知らなかった」
「そうだ。だから、もし君の記憶を消していたら、その後の人生で、記憶を失ったことによって思いもよらない困難に直面するかもしれない。俺はそれが怖かった」
私は少しだけ視線を落とした。
「あの日、俺はあの白い人影に何度も頼み込んだ。君の記憶を消さないでほしいと。結局、かなり時間をかけて説得することになったが……それでも、君の人生が穏やかなものであってほしかったんだ」
私は千代を見つめた。
「まさか、こんな形で再会することになるとは思わなかったよ」
「あの日、病院の廊下で、私はあの青白い人影を神様だと思ったの」
千代は懐かしむように目を細めた。
「青い月明かりに照らされたあなたの姿は、今でも私の心の奥深くに刻まれている。この何年もの間、私はずっとあなたを探し続けてきた」
「俺は、あの日の出来事が君にとってただの夢のような記憶になっていると思っていた。こうして再び会うことができて、本当に良かった。佐天千代」
「私もよ。こんなに長い間、ずっとあなたを探していたの。決して諦めずに……」
窓の外では雲がゆっくりと流れ、澄んだ月明かりが客室に差し込んでいた。
私はあの日、病院の廊下でそうしたように、両腕を広げて千代を抱きしめた。
彼女は静かに私の胸に身を寄せた。
そして、長い年月の間、ずっと心の奥に押し込めていた感情を解き放つように、静かに涙をこぼし始めた。
「ごめんなさい。あなたの服を濡らしてしまって」
「気にするな。どうせ後で風呂に入るつもりだからな」
「あなたの匂いって、とても落ち着くわ。好き」
「俺も君の匂いは好きだよ」
しばらくして、千代はゆっくりと私の腕の中から離れた。
涙はすでに拭われ、その表情にも落ち着きが戻っている。
私は手を伸ばしてカーテンを閉めた。窓の外から差し込んでいた冷たい月明かりが遮られ、客室には柔らかな照明だけが残った。
「さっきはごめんなさい。長い間ため込んでいた気持ちを、全部あなたにぶつけてしまったわ。でも、さっき話したことは全部本当よ。この何年もの間、私は本気であなたを探し続けていたの」
「分かっているよ」
私は静かにうなずいた。
「以前、スーパーで会ったサングラスをかけた黒髪の女の子。それに、同じクラスの同級生……あの時から、君が誰なのかは分かっていた」
私は少しだけ笑った。
「最初に君の名前を見た時は、本当に驚いたよ。あの病院の廊下で出会った少女と、同じ名前だったからな」
「……そうだったのね」
「もう遅い。そろそろ部屋に戻って休んだほうがいい」
「うん。でも、一つだけお願いがあるの。手を出してもらえる?」
私はゆっくりと右手を差し出した。
千代は精巧な装飾が施された指輪を取り出し、私の中指にそっとはめた。
それは迷宮の奥深くで採掘される貴重な宝物だった。以前、情報を集めていた際に、その特殊な能力について耳にしたことがある。
私は指輪に目を落とし、その能力について考えを巡らせていた。
その時だった。
千代が一歩近づき、柔らかな唇を私の首筋にそっと触れさせた。
突然のことに、私は一瞬言葉を失った。
頬が熱くなるのを感じる。
「おやすみ、天木〜」
千代はいたずらっぽく微笑むと、振り返って足早に客室を出ていった。
扉が静かに閉まる。
私は一人、その場に立ち尽くしていた。
指先に淡く光る指輪を見下ろしながら、胸の内にはさまざまな思いが渦巻いていた。
「本当に、可愛い小悪魔だな」
私は小さく笑い、身支度を整えてから浴室へ向かった。
それでも、頭を覆っていたフードだけは外さなかった。
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再び、記憶はあの日の病院の廊下へと遡る。
あの日、病室の空気は重苦しく、息が詰まりそうだった。
私は外の空気を吸うため、父に付き添われながら廊下へ出ていた。
二人で小声で話していた時、父が誰かの気配に気づいた。
振り返ると、私と同じくらいの年頃の少女が立っていた。
長い髪を揺らし、その瞳には信じられないものを目にしたかのような驚きが浮かんでいる。
私はすぐに気づいた。
彼女もまた、私と同じような孤独と茫然を抱えているのだと。
少女が何かを口にしようとした、その瞬間だった。
白い人影が先に動き、彼女を眠りへと誘った。
私は必死に頼み込んだ。
彼女の記憶を消さないでほしい、と。
長い時間をかけて説得を続け、ようやく自分の願いを聞き入れてもらうことができた。
翌日、私は退院の手続きを済ませた。
彼女が目を覚ますのを待ち、ほんの短い言葉を残して、私は一人で病院を後にした。
あの時、彼女には自分とあまりにも多くの共通点があるように感じていた。
だからこそ、知らず知らずのうちに、彼女に対して特別な同情を抱いていたのかもしれない。
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一方、冠陽市郊外に位置する毒虫迷宮では、すでに濃い毒霧が周囲を覆い始めていた。
十三人の魔術師の一人、ベロシフ。
天木を狙って送り込まれたその刺客は、すでに迷宮の周辺に潜伏していた。
穏やかな日常と、優しい再会。
その裏側で、生死を懸けた駆け引きが、今まさに幕を開けようとしていた。




