時を越えて、君の隣へ
時を越えて、君の隣へ
もしも、私たちが最初から、何者かに監視されていたのだとしたら。
もしも、自分の意志で選んできたはずの道さえ、見えない何かによって管理されていたのだとしたら――。
あなたは、それを信じられるだろうか。
私はかつて、その視線から逃れようとしていた。
自分の存在を悟られないように。余計な注目を集めないように。できる限り目立たず、静かに振る舞い続けた。
けれど、どれほど慎重に立ち回っても、視線が消えることはなかった。
まるで、見えない誰かがずっと頭上から私を見下ろしているかのように。
そして私は、いつしか考えるようになった。
――本当に、逃げることなどできるのだろうか、と。
*
一月六日、午前八時四十三分。
私は城の書斎で目を覚ました。
「……少し寝過ごしたか」
魔法時計を確認し、椅子から立ち上がる。
今日は冠陽市へ向けて出発する日だ。準備そのものは昨日のうちに済ませてあるが、出発前に確認しておきたいことはいくつか残っている。
その前に、一つ気がかりなことがあった。
昨夜、徐敏芊を城に泊めたのだ。
慣れない場所で、きちんと眠れただろうか。
そう思い、私は彼女に割り当てた部屋へ向かった。
扉を軽くノックする。
「芊芊、起きてる?」
返事はなかった。
もう一度ノックしてみたが、やはり反応がない。
念のため扉を開けてみると、部屋の中は空っぽだった。ベッドの上にも、彼女の姿はない。
「……先に起きたのかな」
それなら問題はない。
そう判断して部屋を出ようとしたところで、昨夜のことを思い出した。
そういえば、完成したばかりの紫晶龍盤を自分の寝室に置いたままだった。
昨夜はその魔力の輝きを眺めていたせいで、収納空間にしまうのを忘れていたのだ。
私は踵を返し、自分の寝室へ向かった。
扉を開ける。
そして、足が止まった。
ベッドの上に、誰かがいる。
桃色の長い髪を枕に広げ、布団を抱きしめるようにして丸くなっている、小柄な少女。
見間違えるはずもない。
徐敏芊だった。
「……どうして、ここに?」
思わず呟いたものの、当然ながら返事はない。
彼女は気持ちよさそうに眠り続けていた。
昨夜、別々の部屋で休むことになったはずなのだが。
私は寝室の扉を振り返り、それから彼女へ視線を戻した。
……まさか、寝ぼけて部屋を間違えたのだろうか。
可能性としては十分にあり得る。
ひとまず起こそうと、私はベッドのそばまで歩み寄った。
「芊芊。朝だよ」
肩にそっと手を添え、軽く揺する。
反応はない。
「芊芊、起きて。そろそろ出発する時間だ」
もう一度呼びかけると、彼女のまつげがかすかに震えた。
やがて、ゆっくりと目が開く。
まだ眠気の残る青い瞳が、ぼんやりと私を映した。
「……ん……?」
「おはよう」
私が声をかけた、その直後だった。
「えっ……?」
彼女は勢いよく上半身を起こした。
ゴツンッ!
「痛っ……!」
額と額が、見事に衝突した。
私は反射的に額を押さえ、彼女もまた両手で頭を抱える。
「い、いたた……!」
「……大丈夫?」
「ご、ごめんなさい! 私、どうしてここに……!?」
完全に目が覚めたらしい。
彼女は自分が寝ていた場所を確認し、私を見て、再び周囲を見回した。
その頬が、みるみる赤くなっていく。
「昨夜はちゃんと自分の部屋に戻ったはずなのに……」
「もしかすると、夜中に寝ぼけて来たのかもしれないね」
「そ、そんなこと……!」
否定しようとして、彼女は言葉に詰まった。
どうやら、本人にも心当たりがないわけではないらしい。
私は小さく笑い、彼女の頭をそっと撫でた。
「まあ、気にしなくていいよ。まずは顔を洗っておいで。準備ができたら下で待ってるから」
「……うぅ。ごめんなさい、天木」
「本当に大丈夫だから」
そう言い残し、私は寝室を出た。
扉を閉めてから、ふと自分の手を見下ろす。
先ほど、彼女の頭を撫でた手だ。
別に、特別なことをしたつもりはない。
それなのに、なぜか少しだけ、胸の奥が温かかった。
「……さて」
私は小さく息を吐き、頭を切り替えた。
今は感傷に浸っている場合ではない。
冠陽市までの道のりは長い。出発前に確認すべきことも、まだ残っているのだから。
*
城の一階へ降りると、雷葛と佐天千代がすでに待っていた。
外には馬車が停められ、そのそばでは一角獣が出発を待っている。
荷物の積み込みも、馬車の点検も、すべて終わっていた。
「おはよう、二人とも。待たせたかな?」
「いや、こっちは問題ねえよ」
雷葛が御者台から答える。
「私も大丈夫です!」
佐天千代も、いつもの明るい笑顔を向けてきた。
今日から冠陽市までの旅が始まる。
道中にはいくつかの町や集落があるものの、目的地までは三日ほどかかる予定だった。
馬車には車体を補強する付与魔法が施されているほか、風属性の魔法による加速機構も組み込まれている。
それでも、三日間の移動は決して短くない。
車内の収納スペースには、冠陽市で取引するための綿花が大量に積まれていた。さらに、雷葛の鍛冶道具や、佐天千代が使う付与魔法の消耗品も運び込まれている。
それらを確認しながら、私はふと御者台の雷葛に目を向けた。
彼はどこか落ち着かない様子で、何度も遠くの景色を眺めている。
「雷葛さん、ずいぶん楽しそうですね」
「そりゃあな。こうして明夕城を離れて遠出するなんて、二十年ぶりだからよ」
彼は照れくさそうに笑った。
四十歳になった今、息子の雷恩も十八歳。鍛冶屋を任せても問題ないほどに成長している。
雷葛はこれまで、家族のために長い時間を費やしてきた。
妻とは別れ、男手一つで息子を育て上げたのだ。
その苦労を思えば、今回の旅を楽しみにしているのも当然だろう。
私は改めて、馬車の中にいる仲間たちを見回した。
普段、私たちは迷宮の探索や戦闘、装備の強化に追われている。
どのスキルが有効か。どの装備を揃えるべきか。どうすれば最小の損失で最大の成果を得られるか。
そんなことばかり考えている。
もちろん、それらは重要だ。
だが、いつも一緒に行動している仲間たちについて、私はどれほど知っているのだろう。
雷葛には、雷葛の人生がある。
佐天千代にも、彼女自身の人生がある。
そして、徐敏芊にも。
彼らは私の計画を実行するためだけに存在しているわけではない。
ならば、少しくらい互いのことを話す時間があってもいいはずだ。
「せっかく三日間も一緒に旅をするんです。どうせなら、互いのことをもっと知っておきませんか?」
私は二人に提案した。
「これまでのことでも、昔の思い出でもいい。普段はなかなか話せないことを聞いてみたいんです」
「いいですね!」
佐天千代が、待ってましたと言わんばかりに手を挙げた。
「それなら、私から話してもいいですか?」
「もちろん」
「やった!」
彼女は嬉しそうに身を乗り出した。
その反応を見て、私は少しだけ警戒心を抱いた。
……妙に食いつきがいいな。
とはいえ、せっかく本人が話したがっているのだ。止める理由もない。
「実はですね、天木」
佐天千代は、いたずらを企む子供のような笑みを浮かべた。
「私、ずっと前からあなたのことを知っていたんですよ」
「……ずっと前から?」
「はい。現実世界にいた頃からです」
彼女は胸を張って答えた。
「あなたは、私がずっと憧れていたゲーム実況者だったんです。プレイの技術も、戦術の組み立て方も、ゲームの仕様に対する理解も、本当にすごくて……。私はずっと、あなたの配信を見ていました」
「そうだったのか」
それは初耳だった。
私は彼女の顔を見つめたが、記憶を探っても、すぐに思い当たることはなかった。
佐天千代は少しだけ頬を膨らませる。
「……反応が薄いですね」
「いや、単純に知らなかったからね」
「そういうところですよ、天木」
彼女は呆れたようにため息をついた。
「でも、私があなたを好きになったのは、迷宮で助けてもらったからだけじゃないんです」
その言葉とともに、彼女の表情が少し変わった。
いつもの明るさはそのままに、瞳には真剣な光が宿っている。
「あの出来事は、あなたに近づくきっかけになりました。でも、それよりずっと前から、私はあなたのことが好きだったんです」
私はしばらく彼女を見つめた。
「……ごめん。まったく気づかなかった」
「でしょうね!」
即答だった。
「あなた、自分に向けられている好意には、本当に鈍いんですから!」
「それは……否定できないな」
少なくとも、彼女がこれほど長い間、自分に好意を寄せていたとは思ってもみなかった。
しかし、佐天千代はそこで話を終えるつもりなどなかったらしい。
「それでですね。私はあなたのことをもっと知りたくて、いろいろ調べたんです」
「いろいろ?」
「はい。戸籍の情報を調べたり、住んでいる場所を探したり。それから、あなたの家の近くに引っ越して、同じ学校に転入しました」
「……待って」
私は思わず彼女の言葉を遮った。
「今、家の近くに引っ越したって言った?」
「言いましたよ?」
彼女はきょとんとした顔で頷いた。
悪びれる様子は一切ない。
私は一度、目を閉じた。
……情報量が多すぎる。
「でも、あなたって本当に外に出ないんですよね。たまに見かけても、スーパーでエナジードリンクとカップ麺を買って帰るくらいで」
「……」
「だから、何度も思ったんです。私がご飯を作ってあげたら、もっとまともな食生活になるんじゃないかなって」
私は彼女を見つめた。
そこで、記憶の片隅に引っかかっていた光景が、ようやく形を取り始めた。
「……そういえば」
「はい?」
「以前、スーパーでサングラスをかけた黒髪の女性を見たことがあるんだけど……あれも君だったのか?」
「正解です!」
佐天千代は、満面の笑みで答えた。
「やっと気づいてくれましたね!」
「……ずっと、偶然見かけた人だと思っていたよ」
「ひどいです!」
彼女は頬を膨らませたものの、その表情にはどこか嬉しそうな色があった。
どうやら、本人にとっては長年の片想いを語る貴重な機会らしい。
そして、私にとっては、自分の知らない過去を次々と突きつけられる時間でもあった。
「それに、私たち、昔は同じクラスだったんですよ」
「……そうなのか?」
「そうです! あなた、よく授業をサボっていたでしょう? あの頃から、ずっと覚えているんですからね」
私は思わず視線を逸らした。
否定できない。
あの頃の私は、学校に対してあまり熱心ではなかった。
しかし、佐天千代はそれだけでは満足しなかった。
「それから、家では特撮の変身ベルトをつけて、真剣に変身ポーズの練習をしていたことも――」
「待った」
私は即座に手を伸ばし、彼女の口を塞いだ。
「……そこまでにしておこうか」
できるだけ冷静に告げたつもりだった。
だが、佐天千代の目が、これ以上ないほど楽しそうに細められている。
完全に面白がられている。
私はそっと手を離した。
彼女は一度咳払いをしてから、何事もなかったかのように話を続ける。
「それに、昔はよくメッセージも送っていたんですよ。やっと友達申請を承認してくれたと思ったら、返事はいつもそっけないんですから!」
「……」
「せっかく勇気を出して送ったのに、短い返事だけで終わっちゃうことも多くて……」
彼女は少しだけ頬を膨らませた。
その表情には、昔の不満と、今だからこそ笑って話せる懐かしさが混ざっていた。
私は小さく息を吐いた。
「……本当に、申し訳なかった」
「えっ?」
思いがけない謝罪だったのか、彼女が目を丸くする。
「当時の僕は、他人との付き合い方がよくわかっていなかったんだ。君がそんなふうに思っていたとは、知らなかった」
私は彼女の目を見て、続けた。
「今になって気づくことばかりだね」
佐天千代は一瞬、何かを言いかけた。
けれど、すぐにいつもの笑顔に戻る。
「……じゃあ、これからはちゃんと私のことを見ていてくださいね?」
「ああ。そうするよ」
私が頷くと、彼女は満足そうに笑った。
その笑顔を見て、私はようやく理解した。
彼女が過去の話を次々と持ち出すのは、ただ私を困らせたいからではない。
あの頃、自分がどれほど私を見つめていたのか。
どれほど近づきたかったのか。
そして今、どれほど嬉しいのか。
そのすべてを、私に知ってほしいのだろう。
そう考えると、少しくらい恥ずかしい過去を暴露されるのも、我慢するべきなのかもしれない。
……いや。
「ただし、変身ベルトの話は今後一切禁止だ」
「えーっ! どうしてですか!」
「それだけは譲れない」
「天木のけち!」
佐天千代の抗議が、馬車の中に響き渡った。
私は苦笑しながら、窓の外へ視線を向ける。
冠陽市への道のりは、まだ始まったばかりだ。
そして、どうやらこの三日間は、私が思っていた以上に賑やかな旅になりそうだった。




