渾沌神その闇は深くよろずは震える
ひゃははははは! 傑作、本当に傑作だね、これは!
『人間の美貌ごときに揺らぐタマじゃない』だってさ! 自分で言っておきながら面白すぎるよ!
俺――ステラ(中身30歳元自衛官)がゴットフリートの剛腕の中で白目を剥いて気絶した、まさにその直後。後ろを向いていたはずの糸目騎士長エドガーが、突然お腹を抱えて声を上げて爆笑しだした。その身体がぐにゃりと歪み、衣服が黒いタキシード……ではなく、だらしなく着崩したスーツ姿へと変わっていく。エドガーの正体は、またしてもあのクソ邪神・混沌神だったのだ。
「よろず君、どうかな? 最高の瞬間だったろ? しっかり見たかい?」
「はい、混沌神様! それはもう、バッチリと網膜に焼き付けました!」訓練場の物陰から、いつの間にかカメラ……ではなく羊皮紙と羽根ペンを持ったよろずが、満面の笑みで飛び出してきた。よく見ると、静まり返っていたはずの訓練場の草むらや木の上から、ガサガサと怪しい人影が次々と姿を現す。それは、自衛隊のギリースーツ(偽装網)も真っ青になるほど見事に地形に紛れ込み、息を潜めて待機していた王宮の女官やメイド、高貴な婦人たち――
すなわち『ステラのガチ恋・押し活軍団』の精鋭たちだった。
彼女たちは、ステラが全裸やポーズ縛りでハメられる瞬間を今か今かと待ち構えていたのだ。王宮の防諜体制はどうなってやがる!だが、事態はそれだけでは終わらなかった。
「……う、ううん……」
あまりの騒がしさに、俺は数秒で強制的に意識を覚醒させられた。まだ身体がギチギチと凄まじい力でハグされている。だが、何かがおかしい。さっきまで俺を圧死させようとしていた、あのゴリラのような剛毛と鉄の筋肉の質感が、いつの間にか「ひんやりとした、高貴で上品な質感」に変わっている。おそるおそる目をあけると、そこにいたのは闇の闘技場無敗の巨漢ではなかった。
「あ、起きた? おはよう、僕の可愛いステラちゃん」白く輝く豪奢な正装に身を包んだ、麗しき【王子様の姿】をした混沌神が、俺を正面からガッチリと抱きしめていた。ゴットフリートの姿はどこにもない。最初から巨人のフリをして俺をハグしていたのか、あるいは気絶した瞬間にすり替わったのか。
「お、お前……離せっ……!」
「嫌だよ。僕のステラに、他の男を近づけるわけないでしょ? どんなに面白いリアクションが見たくても、君の初めてのまともなハグ(物理)を他のオスに奪わせるなんて、僕が許すはずないじゃないか」
混沌神は、俺の華奢な背中に回した腕の力をさらに強め、髪に顔を埋めるようにして、底知れない執着の滲む声でハッキリと告げた。
「ステラは、僕だけのものさ。 誰にも、指一本触れさせないよ?」
「ひっ……!」
神の絶対的な独占欲と覇気に、俺の心臓が恐怖で縮み上がる。
だが、その言葉を至近距離で、それこそ生原稿のネタ元としてガリガリとメモしていたよろずが、突然ピタリとペンを止めた。
よろずは、王子様姿のまま俺に異常な執着を見せる混沌神の瞳
(糸目の奥のガチな闇)を間近で見て、顔からサーッと血の気を引かせた。
(……あ、あれ? 混沌神様、これ『萌え』とか『薄い本のネタ』の領域を完全に超えていませんか……? 冗談抜きで、ステラ様が他の男と一言しゃべっただけで国を一つ滅ぼしかねないレベルの、ガチな狂気のヤンデレ邪神に片足を突っ込んでおられるのでは……?)
さすがのヘンタイ同人作家・よろず先生も、邪神のカンストした本物の執着の深さに、初めてリアルに「あ、これアカンやつだ」とドン引きし、背筋に冷や汗を流して静かにノートを閉じるのだった。
「ひゃはははは! それじゃ、またね!」混沌神は満足したように大爆笑すると、俺をベッド……ではなく訓練場の床にしなやかに着地させ、そのまま光の粒子となって消え去った。同時に、地形に紛れていた女官たちも
「邪神様ガチすぎて怖い…」
と賢者タイムを迎えたようにすごすごと解散していった。
「本当にごめんなさいね、ステラちゃん……。エドガーがまさか混沌神の化けた姿だったなんて、私も見抜けなくて……」
午後、王宮の客室で、シャルロット姉さまが今度こそ本当に申し訳なさそうに俺の手を握って謝罪してくれた。
「いえ、姉さま……。あの神が関わると、この世界のすべての常識がバグるってことが、身に染みて分かりました……」俺はベールを深く被り直し、ウォッカを一口(これで今日一杯目)飲んでどうにか精神の安定を保った。
「でも、次は絶対に大丈夫よ。私の王族としてのツテをすべて使って、人間の男ではなく、完全に魅了の呪いから超越した『本物の魔術の大家』をお招きしたわ」姉さまが太鼓判を押すと同時に、部屋のドアが静かに開いた。入ってきたのは、年の頃なら人間の年齢で数百歳、いやそれ以上に生きているであろう、神聖なオーラを纏った【エルフのお婆さん】だった。長い耳は少し垂れ下がり、深い皺の刻まれた顔には、あらゆる世界の真理を悟ったような穏やかな知性が宿っている。
手には古木でできた見事な魔術杖を握っていた。
「お初にお目にかかります、若き吸血鬼の姫君。私はエルフの里より参りました、魔導の長・エルミナと申します」エルフのお婆さんは、俺の防風ベールの奥を見透かすように一瞥したが、その瞳に狂気や魅了の色は一切浮かばなかった。長寿の種族であり、すでに性欲や現世の美醜の概念を超越しているため、俺の『狂気の美貌』の精神攻撃が全く効いていないのだ。
「……ガチの、本物の魔法の先生だ……っ!」
俺はベールの下で、今度こそ本物の救いの神を見た思いで感動の涙を流した。ゴリラでもない、日替わりの邪神でもない、薄い本のネタを探しにきた腐女子でもない。まっとうな、歴史に裏打ちされた本物の教育者。
「エルミナ先生! よろしくお願いします! 俺――私に、魔法の基礎を教えてください!」「ええ、あなたの持つ【魔法適正:大】、そして歪んだ魔力の流れ……。じっくりと、本格的に鍛え上げて差し上げましょう」こうして、幾多のバグとハプニングを乗り越え、俺の本当の魔術訓練が、ようやく幕を開けるのだった。目指すは、あのクソ邪神の鼻面に一撃を叩き込めるだけの絶対的な力。元自衛官の執念の反撃が、ここから静かに始まろうとしていた。
(続く)




