渾沌神はベットで囁く
「……っ、は、はぁ……っ」
昼過ぎにベッドの上でがばりと跳ね起き、夢か現実か分からない極限状態から生還した俺――ステラ。
心臓がバックバクと身体の限界を超えて鳴り響く中、俺は冷や汗を拭いながらベッドから足を下ろした。何事もなかったかのように静まり返る自室。だが、俺の自衛官としての鋭い索敵能力が、机の上に置かれた『ある一つの不審物』を捉えた。「な、なんだ……あれは……」おそるおそる近づき、机の上に置かれていた出来立てホヤホヤの、まだインクの匂いすら生々しい数枚の束――【速報版・限定イラストペーパー】を手に取った。そこには、驚異的な筆の速さで描かれた、今朝の『中庭お茶会事件』の一部始終が克明に描かれていた。黒を基調とした最高級の騎士服を着こなす気障なイケメン騎士(混沌神)と、その向かい側で、ピンクの超ミニスカート仕様のゴシックメイド服を穿かされ、頭に小さな銀の王冠をちょこんと載せられて怯える絶世の美少女(俺)。しかも、ご丁寧に『朝露に濡れる中庭で、主従の愛を超えた秘密の不純異性交遊(裏はガチBL)ティータイム♡』という、おぞましいキャッチコピーまで添えられている。裏面にはよろず先生の最速ショートストーリーまでギッシリだ。「あ……ああ……」精神的ダメージが、肉体の許容量を一瞬で突き抜けた。中身30歳のおっさん自衛官のプライド、陸曹長としての尊厳、そのすべてが木っ端微塵に粉砕される。あまりのショックと羞恥心、そして底なしの絶望感により、俺のハイブリッド仕様の華奢な美少女ボディは、文字通り『知恵熱』を出して、その場に崩れ落ちるように再びベッドへと倒れ込んだ。バタリ、と意識が遠のく中、俺の視界は真っ赤に染まり、体温は一気に40度近くまで跳ね上がっていった。ガチで寝込んでしまったのだ。
「……あ、あら? ステラ様……? 本当に熱を出してしまわれたのですか……?」さすがに、朝のゲリラお茶会からの最速限定ペーパー発行という鬼畜コンボが原因で、主がリアルに高熱を出して寝込むとは思っていなかったのだろう。部屋に入ってきたよろずは、真っ赤な顔をしてハァハァと荒い息を吐きながらうなされている俺を見て、いつになく激しく狼狽していた。「ど、どうしましょう……。いくら萌えの供給のためとはいえ、私のせいでステラ様が肉体的に崩壊してしまっては元も子もありません……。不徳の致すところです、本当にやりすぎました、反省します……!」よろずは珍しく神妙な顔つきになり、氷水で冷やしたタオルを俺の額に乗せたり、甲斐甲斐しく看病を始めた。だが、この異世界、平穏な反省など1ページも続くわけがない。コンコン、と部屋のドアが静かにノックされ、一人の男が音もなく入ってきた。
「やあ、ステラちゃんの具合はどうだい? 心配で、天界から急いで駆けつけちゃったよ」部屋に現れたのは、これ以上ないほど白く輝く豪奢な正装に身を包んだ、気高き【本物の王子様姿】の混沌神だった。金糸の刺繍が施されたマントをなびかせ、糸目の奥にある邪悪な楽しさを完璧なロイヤルスマイルで隠している。混沌神は、ベッドの横にそっと腰を下ろすと、真っ赤になってうなされる俺の頬に優しく手を添え、驚くほど甲斐甲斐しく、かつ絵画のように美しく看病を始めた。「可哀想に、熱が高いね……。ほら、僕が新しい氷タオルに替えてあげるからね、ステラちゃん。僕の大切なおもちゃ……じゃなくて、愛しい愛妾なんだから、早く元気になっておくれ」その、白の王子様(邪神)が病床の美少女を優しく労わるという、天地がひっくり返るほどドラマチックで完璧な構図を目撃した瞬間。
「――ッッッ(尊死)!!!」ベッドの傍らで見ていたよろずの脳内で、何かしらのリミッターが完全に消し飛んだ。さっきまでの「やりすぎたと反省する殊勝な気持ち」など、邪神の放った特大の萌えの前に、一瞬で消し炭となって蒸発した。「は、反省している場合ではありません……! 何ですかこの『病める愛妾を献身的に看病する美しき白の王子(中身は執着系邪神)』という国宝級のシチュエーションは……! 今すぐこれを形にしなければ、私は原作者として死んでも死にきれません!!」よろずは鼻血を噴き出す暇すら惜しむように、懐から猛烈な勢いでノートと羽根ペンを引っ掴んだ。「アシスタントの皆さん! 臨時増刊号です! 今の邪神様のタオルの替え方の角度、ステラ様の細い指先を握る優しさ、すべてを網羅した本を、本日中に書き上げますよ!!」部屋の隅で、よろずは凄まじい残像を残しながら、ひたすらに執筆活動に励み始めた。カリカリカリカリと、呪いの防風ベールを編む時以上の超スピードでペンが走る。反省の心は、より過激な新刊へのエネルギーへと100%変換されていた。
一方、その横で高熱にうなされ、熱さで混沌とする意識の海に溺れていた俺は。現実のよろずのペンの音も、王子様姿の邪神の冷たい手の感触も分からぬまま、真っ暗な精神世界の中にいた。(……クソっ……なんで俺は、いつもいつも、あの邪神の後塵を拝さなきゃいけないんだ……。自衛官として……一人の男として、こんな理不尽な敗北を認められるかよ……!)悔しさと、熱による苦しさで、俺の魂が涙を流して叫ぶ。すると、その暗闇の奥底から、どこか神々しく、静かで、だが力強い『謎の声』が降ってきた。
『――聞こえますか、哀れな子よ。貴方が今、それほどまでに苦しみ、屈辱に塗れているのは、偏に“力”が足りないからです』(……力……?)『そうです。己を鍛えなさい。実戦の経験を積み、魔力を練り上げ、あの理不尽なる混沌神と、対等に渡り合えるだけの絶対的な力を得るのです。さすれば、貴方を縛るすべての因果から解き放たれるでしょう。さあ、強く願い、己を鍛えると誓うのです――』混沌とする意識の中で、俺はその声に、まるで救いの神の御手を見るかのように、縋り付いた。そうだ、その通りだ。あいつが神だからって、何でも思い通りになると思うなよ。武器補正も、魔法適正もあるんだ。俺がもっと、ミリタリーとファンタジーの融合を極めて強くなれば、あのクソ邪神の顎に、今度こそ本物のマジカル掌底(物理)を叩き込んで完全勝利できるはずだ!
「……誓う……。俺は、絶対に、己を鍛え上げてみせる……! あのクソ邪神を、いつか絶対にブッ飛ばす……!!」俺は意識の底で、固く、固くその拳を握りしめ、己を極限まで鍛え上げることを神に誓ったのだった。
――もちろん。その、真っ暗な意識の海で聞こえた「己を鍛えなさい」という神々しい声が、【ベッドの横で王子様の姿をしながら、俺の頭の中に直接声を送り込んで遊んでいる混沌神の囁き】そのものであることなど、熱で脳が茹で上がっているステラが気がつくはずもなかった。「ひゃはははは! 『誓う!』だってさ! あははは、自分で自分を鍛えて僕に挑もうとするなんて、健気で本当に最高に可愛いねぇステラちゃん! もっと強くなって、もっと僕を楽しませておくれよ♪」ベッドの横で、白の王子様の姿をした邪神は、よろずのペンの音に紛れながら、声を殺してこれ以上ないほど邪悪に大爆笑しているのだった。
(続く)




