第95話 村に這い寄る影
オーリエル王国を離れたレオンたちは、カリンが事前に調べてくれていた魔族の目撃情報を頼りに、街道を進んでいた。
レオンの腰には、あの黒銀のガントレットが専用のホルダーでしっかりと固定されている。いつでも左手に装着できるよう、位置は完璧に調整されていた。
「この先に、最近妙な魔力の歪みが観測されたっていう村があるはずだけど……」
クラリスが周囲を警戒しながら歩を進めると、やがて木々の隙間から小さな村が見えてきた。
村に足を踏み入れると、そこにはのどかな光景が広がっていた。畑を耕す老人、平穏に走り回る子供たち、そして家畜の鳴き声。緊迫した気配などは微塵もなく、どこにでもある平和な農村そのものだった。
「ずいぶんと……のどかな村ですわね。本当にここに魔族の足跡があるのですの?」
エレナが不思議そうに周囲を見渡す。
「油断は禁物です、エレナ様。魔族がその本性を隠して潜んでいる可能性もあります」
ルシフェリアがレオンの一歩前に出ながら、鋭い視線を巡らせた。
「……まぁ、直接聞いてみるのが一番早いな」
レオンを先頭に、四人は近くで農作業の手を休めていた村人の男性へと近づき、声をかけた。
「すまない、少し話を聞きたい。――最近、このあたりで奇妙な影を見たり、おかしな魔力の気配を感じたりしたことはないか? 何か『魔族』に繋がるような噂でもいい」
レオンがぶっきらぼうながらも真剣な口調で尋ねると、村人は突然現れた旅の魔術師一行に少し驚いた様子を見せながらも、顎に手を当てて考え込み始めた。
「最近なぁ……いや、特にこれと言って変わったことは何もないなぁ。魔物が出たって話も聞かねえし、毎日いたって平和なもんさ」
村人は頭を掻きながら、のんびりとした調子で答えた。
「そうか……急に妙なことを聞いてすまなかった」
レオンが短く礼を言うと、村人は「気をつけてな」と言い残してまた畑仕事へと戻っていった。
村人から離れたところで、四人は一度足を止めて話し合う。
「うーん、特に何もないかぁ……。カリンさんの情報、もしかしてガセだったのかしら?」
クラリスが腕を組んで、つまらなさそうに息を吐く。
「ですが、あのカリンさんが私たちにそんな不確かな情報を流すとは思えませんわ。何か理由があるはずです」
エレナがカリンを信じるようにそう主張すると、ルシフェリアが静かに周囲の木々や村の奥へと冷徹な視線を走らせた。
「……エレナ様の言う通りかもしれません。明確な形はありませんが、先ほどから肌にまとわりつくような……何か、嫌な気配がします。かつて戦場や暗殺の場で感じたものに似ているような……」
ルシフェリアの言葉に、レオンも腰のガントレットに手を置き、周囲の魔力の流れに意識を向けた。
「……カリンの情報が間違っているとも思えない。だが、今すぐどうこう動ける段階でもないな。とりあえず今日はこの村に一日滞在して様子を見る。何も起きなければ、明日にはここを出よう」
レオンの判断に、三人は小さく頷き、まずは村の宿を探すために歩き出した。平和に見えるのどかな村の裏で、何かが蠢いているような奇妙な違和感を抱えながら。
「すまない、この村にどこか泊まれるような宿はあるか?」
レオンが近くを通りかかった別の村人に声をかけると、その男は少し困ったように眉を下げた。
「宿なんて大層なもんはこの村にゃねえよ。……ああ、でも、もし良ければあそこにある納屋を使ってくれ。少し埃っぽいかもしれんが、藁ならいくらでもあるからよ」
村人は少し離れた場所にある古い木造の建物を指差した。
「助かる。ありがたく使わせてもらう」
レオンがそう言うと、村人は「気にすんな」とぶっきらぼうに笑って去っていった。
村人の姿が完全に見えなくなると、クラリスがすぐに肩を落として不満の声を漏らした。
「え〜〜、納屋ぁ〜? せっかく新しい杖のお披露目も終わって、今夜はふかふかのベッドで寝られると思ったのに……」
「贅沢言うな。野宿よりは遥かにマシだろ」
レオンがため息混じりに釘を刺すと、エレナもクラリスをなだめるように優しく微笑んだ。
「そうですわよ、クラリスさん。屋根があって風を凌げるだけでも、旅の疲れの取れ方は全く違いますわ。これくらい、アステリアを離れた時から覚悟の上です」
「それはそうだけどさぁ……」
クラリスがまだブツブツと言い訳を考えている最中、ルシフェリアだけは会話に加わらず、先ほど去っていった村人の背中を、ただじっと無言で見つめ続けていた。その銀髪の下の瞳は、いつものメイドとしての柔らかさを失い、元暗殺者としての冷徹な光を宿している。
「……ルシフェリア? どうした?」
レオンがその視線に気づいて声をかけると、ルシフェリアはスッと表情を戻し、静かに首を振った。
「いえ、ご主人様。……少し、気になることがあっただけです。まずは納屋の掃除と、今夜の仕度を済ませてしまいましょう」
彼女の微かな警戒を察しながらも、一行はひとまず今夜の拠点となる納屋へと向かうのだった。
納屋の重い木の扉を開けると、中には乾燥した藁の匂いが充満していた。少し埃っぽさはあるものの、風は完全に遮断されており、夜を明かすには十分な空間だった。
「とりあえず休もう。今日は朝からずっと歩きっぱなしだったしな」
レオンが背負っていた荷物を床に下ろし、そう声をかける。
「そうですわね。カスパールさんもお疲れ様でした」
エレナは流石に疲れが見える様子で、上品にスカートを整えながら、敷き詰められた藁の上にゆっくりと横になった。
「うう……こうして見ると、意外と悪くないかも……」
さっきまであれだけ文句を言っていたクラリスだったが、いざ藁の山を目の前にすると、吸い寄せられるようにその場にバタリと倒れ込んだ。不満を口にしていた割には行動が早く、すでに心地よさそうに目を瞑っている。
「あっという間に馴染んだな、あいつ……」
レオンが呆れたようにクラリスを見下ろす傍らで、ルシフェリアは休むことなく、まずはレオンが座るための綺麗な藁を素早く整え始めていた。
夜が深く更け、納屋の中が完全に静まり返った頃――。
レオンは肩を優しく揺すられ、瞬時に意識を覚醒させた。
目を開けると、月明かりを浴びたルシフェリアの銀髪がすぐ近くで揺れていた。その表情は極限まで張り詰めている。
「……ご主人様、起きてください。微かに足音が聞こえます」
ルシフェリアがレオンの耳元で、消え入りそうな声で囁いた。
「足音……? 村の人だろ。見回りか何かじゃないのか?」
レオンが低く問い返すと、ルシフェリアは静かに首を振った。
「いえ、違います。……10人はいます。こんな夜更けに、これほどの大人数で、息を殺してこちらへ向かってくるなど、明らかに異常です。何を企んでいるのか……」
ルシフェリアのただならぬ気配に、レオンも状況の深刻さを察した。すぐに身体を起こし、隣で眠る二人の肩を強く叩く。
「クラリス、エレナ。起きろ」
「ん〜〜……? なに〜……? もう朝ぁ……?」
クラリスが眠そうに目をこすりながら、寝返りを打って気だるげに声を漏らす。一方、エレナはレオンの緊迫した声にすぐに反応し、ガタッと身体を起こした。
「カスパールさん……? なにか、ありましたか?」
「近づいています。……すぐそこです!」
ルシフェリアが鋭く告げ、双短剣へと手を伸ばしたその瞬間だった。
――バンッ!!!
激しい音を立てて、納屋の重い木の扉が乱暴に蹴り開けられた。
月光を背に浴びて乱入してきたのは、昼間は温厚そうに見えた、あの村人たちだった。
「起きていたか……」
乱入してきた村人の一人が、苦渋に満ちた表情で低く呟いた。その手には鍬や鎌、そして手製の槍が固く握られている。
「……何の用だ、こんな夜更けに」
レオンはいつでも動けるよう身体を低く構え、腰のガントレットに手をかけながら冷徹に問い詰めた。
「早く逃げろ。……お前たちは、今すぐここから逃げるんだ」
先頭に立つ昼間の村人が、絞り出すような声でそれだけを告げた。
「どういう事だ。説明しろ」
レオンが険しい視線で先を促すと、村人は諦めたようにがっくりと肩を落とし、震える声で真実を話し始めた。
「最近……この近くの森に魔族が現れたんだ。そいつは、村を襲わない代わりに人間を寄越せと要求してきた……。断れば村は全滅だ。だから、俺たちは今から一か八か、そいつを殺しに戦いに行く。お前たち旅人を身代わりに差し出そうって意見も出たが……そんな外道な真似はできねえ。これ以上、関係ねえアンタらを巻き込みたくないんだ」
その言葉に、ルシフェリアが納得したように小さく息を吐いた。
「……嫌な気配は、やはりその魔族のせいでしたか。村の皆さんはそれを隠そうとしていたのですね」
「……そういうことか」
全てを察したレオンは、迷うことなくその場に立ち上がった。腰のホルダーから黒銀のガントレットを引き抜き、歪な術式が刻まれた左腕へと一気に装着する。カチリと冷たい金属音が納屋に響き渡った。




