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『世界は魔術でつくられる 〜術式を消去する左手を持つ少年、最強の師匠に拾われて理を書き換える〜』  作者: 三ノ宮 櫻


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第88話 はじまり

 夜の静寂に包まれたシルバーフレイムの屋敷。その一室で、父と娘の激しい言葉が火花を散らしていた。


「お父様、私、強くなりたいの。だから行くわ。……レオンやみんなと一緒に、この国の外へ」


 クラリスの決然とした言葉に、ヴォルカニカスは机を叩かんばかりの勢いで立ち上がった。


「ダメだ! 断じて許さん! 外の世界がどれほど危険か分かっているのか。今は魔族の活動も活性化している。王国内ならまだしも、一歩外へ出れば守ってくれる王国騎士団もいないのだぞ!」


「だから強くなるのよ! 誰かに守ってもらわなきゃ生きていけない私じゃなくて、私一人でも、大切な誰かを守れるくらい大丈夫なように!」


「しかしお前はシルバーフレイム家の……この家を継ぐべき大切な身の上なんだ。もしものことがあったら、私は……!」


 ヴォルカニカスの声には、騎士団長としての威厳よりも、娘を失うことを恐れる一人の父親としての震えが混じっていた。だが、クラリスはその不安を突き破るように、さらに声を張り上げる。


「私はもう、『シルバーフレイム』のクラリスはいやなの!誰かの看板を背負って安全な場所にいるだけの自分は、もうおしまい!」


 クラリスは自らの胸に手を当て、紅蓮の瞳で父を真っ向から見据えた。


「私は魔術師になるわ。家柄も名前も関係ない、一人の魔術師に。……お父様よりもずっと強い、最高の魔術師になってみせるから! だから、信じて送り出して!」


 娘の瞳に宿る、かつてないほど激しく、そして気高い輝き。ヴォルカニカスは、目の前の少女がいつの間にか自分の腕の中から飛び立とうとしていることを、認めざるを得なかった。

 ヴォルカニカスは拳を強く握りしめ、絞り出すような沈黙の末に、ようやく口を開いた。


「……分かった。行くがいい。その代わり、中途半端な覚悟なら二度とこの家の敷居を跨ぐな。もう帰ってくるなよ」


 あえて突き放すような、突き刺さるほど厳しい言葉。クラリスはその言葉を正面から受け止め、小さく「……ええ」とだけ漏らすと、背を向けて部屋を出ようとドアノブに手をかけた。

 だが、背後から聞こえてきたのは、先ほどまでとは違う、震えるような低い声だった。


「……立派な魔術師になって帰ってこい。死なずに、誰よりも誇り高い魔術師になって……必ず生きて戻るんだ。約束だぞ、クラリス」


 その言葉に込められた、不器用で、けれど海よりも深い父の愛。クラリスの瞳から、こらえていた涙が溢れ出した。彼女はすぐに振り返り、顔をくしゃくしゃにしながらヴォルカニカスへと叫んだ。


「うん! お父様、ありがとう! 私、絶対、絶対にお父様が腰を抜かすくらい凄い魔術師になって帰ってくるから!」


 親子の間にあった壁が、その約束によって確かな絆へと変わった。クラリスは涙を拭い、今度こそ迷いのない足取りで、未来へと続く扉を開けた。

 同じ時刻。月光が差し込む静かな執務室。エレナは、王国騎士団総長という重責を担うアルガスの前で、凛とした佇まいで立っていた。


「お父様、わたくし……外の世界を見に行こうと思います」


 その宣言に、アルガスは分厚い胸板の前で腕を組み、静かに問い返した。


「ふむ。それで、見てどうするつもりだ。得られるものが、外にあるというのか?」


「……わたくしは今まで、この王国のこと、ゴールドバルト家のことしか考えていませんでした。それがわたくしの世界の全てでしたわ」


 エレナは窓の外に広がる、夜の帳に包まれた広大な大地を見つめた。


「しかし、魔族の手が世界全体に伸びようとしている今、そのような小さなことばかりを言ってはいられません。外の世界で何が起きているのか、人々が何を求めているのか……それを知らずして、真に世界を、そしてカスパールさんを守ることなどできないと気づきましたの」


 アルガスはしばらくの間、黙ってエレナを見つめていた。その厳格な瞳がわずかに細められ、懐かしむような光を帯びる。


「……そうか」

アルガスは短く呟くと、深く椅子に体を預けた。


「私も、お前くらいの年頃の時にな……ヴォルカニカスの奴と二人で旅に出たよ。この国が、世界の一部でしかないことを知るためにな」


 その意外な告白に、エレナは驚いて目を見開いた。

「お父様と、ヴォルカニカス様が……旅に?」


「ああ。あの頃の我らも、お前たちのように無鉄砲で、青臭い理想を抱いていた。……だが見てきたものは、今の私を作っている。エレナ、お前の選んだ道は、決して間違いではない。ゴールドバルトの盾は、国を守るためだけにあるのではない。弱き者の光となるためにあるのだ」


 アルガスは立ち上がり、棚から古びた地図を取り出してエレナに差し出した。


「行け。そして、我らが見られなかった世界の先を見てこい。お前の帰る場所は、この私が守り続けてやろう」


 エレナは背筋を伸ばし、濁りのない瞳でアルガスを見据えた。


「はい! お父様。わたくし、必ずや一回りも二回りも大きくなって戻ってまいりますわ!」


 その力強い返答に、アルガスは満足げに頷いた。しかし、ふっと表情を緩めると、少しだけ意地の悪い、けれどどこか楽しげな笑みを浮かべた。


「ふむ……。しかし、今頃ヴォルカニカスの奴は、娘に泣きついて『行かないでくれ!』と縋り付いているのではないかな。あやつの娘煩悩ぶりは騎士団でも有名だからな」


 脳裏に、鎧姿のまま娘の足にしがみついて号泣するヴォルカニカスの姿が浮かび、エレナは思わず口元を抑えて吹き出した。


「ふふっ……! ヴォルカニカス様も、さすがにそこまでは……。でも、確かに否定はしきれませんわね」


 二人の笑い声が静かな執務室に響く。それは、重責を背負う騎士としての会話ではなく、温かな親族としての最後の一時だった。


「……エレナ。仲間を大切にしろ。仲間を守るのはお前の光だ」


「ええ。分かっておりますわ」


 エレナは深々と一礼し、大切な仲間たちが待つ場所へと戻るために部屋を後にした。


 その夜、アステリア王国のそれぞれの場所で、少年少女たちは自らの殻を破り、未知なる世界への一歩を踏み出す決意を固めていた。運命の歯車が、大きく、そして静かに回り始める。

 レオンは、黙々と荷物を整理するルシフェリアの背中をじっと見つめていた。彼女の無駄のない動きは、暗殺者としての習性と、メイドとしての献身が混ざり合った、彼女にしかできない手際の良さだった。


「……なぁ、ルシフェリア。もういいんだぞ」


 レオンの言葉に、ルシフェリアの手が一瞬止まるが、すぐにまた服を丁寧に畳み始めた。


「旅の支度は完璧にしませんと。食料の配分や、野営の道具、ご主人様の着替え……。準備に抜かりがあると、後で困るのはご主人様ですから」


「いや、そうじゃない。もう、俺についてこなくてもいいんだぞ、と言ってるんだ」


 今度は、はっきりと告げた。

 その言葉を聞いた瞬間、ルシフェリアは持っていた服を置くと、ゆっくりとレオンの方へ向き直った。その銀色の瞳には、動揺というよりも、何かを問いかけるような鋭い色が宿っていた。


「……何を、おっしゃるのですか。私はご主人様のメイドであり、影です。ご主人様が行く場所に私がいないなど、あり得ません」


「キャロルの話を聞いただろう。俺の出生も、これから行く場所の危うさも、今までとは次元が違う。それに……お前の身体能力の理由も、魔族に関わっているかもしれないんだ。俺と一緒にいれば、お前は嫌でも自分の過去や、見たくもない真実と向き合うことになる」


 レオンは一歩近づき、ルシフェリアを突き放すように、けれどどこか気遣うように声を落とした。


「お前はもう、自由だ。キャロルからも、俺からも、暗殺者としての呪縛からもな。この国に残れば、騎士団だって放っておかないだろうし、普通の女の子として生きていく道だってあるはずだ」


「……『普通』、ですか」


 ルシフェリアは小さく、けれど自嘲するような笑みを漏らした。そして、一歩、また一歩とレオンとの距離を詰める。


「ご主人様。私はあの日、感情を失っていた暗殺者の人形だった私に、心をくださった時のことを片時も忘れたことはありません。私にとっての自由とは、誰かに与えられるものではなく、ご主人様のお側で、ご主人様をお守りすること……それだけなのです」


 ルシフェリアは、レオンの前に跪き、その左手――白手袋に包まれた手を、宝物でも扱うかのように両手でそっと包み込んだ。


「たとえ私のルーツがどれほど忌まわしいものであっても、私がご主人様の従者であるという事実は揺らぎません。……私を見捨てるとおっしゃるなら、ここで私を斬ってください。それができないのであれば、地獄の果てまでもお供いたします」


 見上げられた瞳には、献身という名の、逃れようのないほど深い独占欲と覚悟が揺らめいていた。

 ルシフェリアは、跪いたままレオンの手をさらに強く引き寄せ、自身の頬に寄せるようにした。その指先がわずかに震えている。


「それに……」


 彼女は一度言葉を切り、深く俯いた。銀色の前髪が揺れ、隠されていた感情が堰を切ったように溢れ出す。


「もう、離さないって……決めたから……。誰に何を言われても、絶対に……」


 丁寧な敬語が剥がれ落ち、震える声で紡がれたのは、従者としてではない、一人の少女としての切実な本音だった。感情を与えられたあの日から、彼女の世界の中心には常にレオンがいた。その彼に「ついてこなくていい」と言われることが、彼女にとっては何よりも恐ろしい死に等しい宣告だったのだ。

 レオンはその震えを、手のひらを通じて静かに受け止めた。


「……ふぅ」


 レオンは短く、けれど憑き物が落ちたような溜息を吐いた。ぶっきらぼうな彼なりの、降参の合図だ。


「分かったよ。……なら、俺も離さない」


 レオンはルシフェリアの手を、今度は自分から力強く握り返した。


「勝手にいなくなろうとしたのは謝る。お前がいなきゃ、荷物一つまともにまとめられないからな。……これからも俺の隣にいてくれ」


 その言葉を聞いた瞬間、ルシフェリアの瞳から、一筋の涙が零れ落ちた。


「……はい。……はい、ご主人様っ」


 彼女は再び、いつもの献身的な、けれどどこか幸福に満ちた微笑みを浮かべて返事をした。

 翌朝、アステリア王国の門の前には、それぞれの決意を胸に秘めた四人の姿があった。レオン、クラリス、エレナ、そしてルシフェリア。

 彼らの旅立ちは、王国の歴史には刻まれないかもしれない。だが、世界の理を書き換えるための、そして大切な人を救うための物語が、今ここから静かに幕を開けた。

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