第87話 決意の
「自分勝手なお願いなのは、百も承知さ」
キャロルはそう言い残すと、ひび割れた体を感じさせない軽やかな足取りで部屋を出ていった。後に残された4人の間には、これまでで最も重く、冷たい沈黙が立ち込める。
あの「最強」で「不変」だと思っていたキャロルが、壊れかけている。その事実は、レオンたちの支えを根底から揺るがすには十分すぎた。
誰もが言葉を失い、ただ足元の床を見つめることしかできない。
その沈黙を最初に破ったのは、いつも真っ先に活路を見出すクラリスだった。
「……私、ずっとお父様に守られてきたの」
ぽつりと、自分自身に言い聞かせるような声だった。彼女は自分の手を見つめ、指先を小さく震わせる。
「小さい頃からずっと。危ないことは全部お父様がやって、欲しいものは何でも手に入って。この学校に入っても、結局シルバーフレイムの名前とお父様の威光に守られていただけだった……。だから、自分の力に自信が持てなくて、白炎のコントロールだって全然できなくてさ」
彼女は視線を上げ、隣に立つレオンを盗み見るように見た。その瞳には、懐かしさと、ある種の決意が混じっている。
「……その時に、レオンに出会ったのよね」
制御を失ったクラリスの白炎は、彼女自身の意志を離れ、周囲を焼き尽くそうと暴走した。彼女の目の前で、レオンがその左手を伸ばした。
「私の炎を消して、私の事をシルバーフレイムの私じゃなく、ただの私として見ていた。私、生まれて初めて『自由になれた』気がしたのよ。誰かの影じゃなくて、自分の力と向き合わなきゃいけないんだって」
クラリスは、今度は力強く自分の拳を握りしめた。
「キャロルが言ったことも、お父様の心配もわかる。でも……私はもう、守られるだけの女の子でいたくない。レオン、私、行くわよ。この炎を、あんたを守るための本当の力にするために」
クラリスの真っ直ぐな宣言に呼応するように、エレナも一歩前へ出た。その表情には、アステリア王国の貴族としての気高さに加え、迷いを断ち切った強さが宿っている。
「……私も、似たようなものですわ。ゴールドバルト家の聖女として、いつかは父の跡を継ぎ、騎士団を背負う……。その運命に従うことだけが、わたくしの存在価値だと思って剣と魔術の鍛錬をしてきました」
エレナは胸元のゴールドバルト家のネックレスをそっと指先でなぞった。かつては重荷でしかなかったその紋章が、今は違う意味を持って彼女の胸にある。
「けれど、もうそれだけではありません。レオンさん、あなたと出会い、共に死線を越えて……わたくしはやっと気づいたのです。誰かに与えられた役割ではなく、わたくし自身の意志で、守りたいものがあるのだと」
彼女はレオンを真っ直ぐに見つめ、凛とした声で言葉を繋いだ。
「わたくしも、この世界のひとりの人間として、あの魔族に立ち向かいます。ゴールドバルトの名にかけて、そして、わたくし自身の誇りにかけて。あなたと共に戦う『光』でありたいのです」
その言葉は、聖女としての慈愛を超えた、ひとりの戦士としての確かな覚悟だった。
クラリスとエレナ。それぞれの想いを聞き届けたルシフェリアは、静かに、だが深く頭を垂れる。
「……お二人とも、強いですね。私は、ご主人様に従うことしか能のない身ですが……それでも。ご主人様が人間として歩もうとする道を阻むものがあるならば、私はこの命の最後の一滴まで、その刃となるだけです」
レオンは、自分に向けられた三人の視線の重みと温かさを感じていた。キャロルの衝撃的な告白、自らの出生の秘密、そして動き出す世界の理。
「……ああ、わかってる。俺たちはもう、ただの教え子や守られるだけの存在じゃないってことだな」
レオンは左手の白手袋をゆっくりと締め直した。
「行こう。キャロルの勝手なお願いを、俺たちの意志で塗り替えてやるために」
月明かりが、屋上に立つキャロルの姿を青白く照らしていた。夜風に吹かれる彼女の銀髪は、どこか透き通っているようにも見える。
「冷えるぞ」
背後からかけられた声に、キャロルは振り返ることなく、空に浮かぶ星々を見つめたまま答えた。
「珍しいね、レオン。君が僕を気遣うなんて、明日は槍でも降るのかい?」
レオンは隣に並び、彼女と同じ夜空を見上げた。横目で見れば、やはり彼女の首筋には痛々しいひび割れが走っている。
「……いつからそんな状態だったんだ。さっきの様子じゃ、昨日今日始まったことじゃないだろう」
キャロルは少しの間、沈黙を守った。夜の静寂が二人の間に流れる。やがて、彼女は遠くを見つめたまま、独り言のように話し始めた。
「実はね、僕はもう諦めていたんだよ。この王国に来た時にはね。永遠を生きる術式も、人の形を保つ理も、とっくに限界を迎えていた……。世界を救うことも、自分を変えることも、何もかもをね」
彼女はそこで言葉を切り、ゆっくりと視線をレオンに向けた。
「でも、君が生まれた。……一つ、君が知らない真実を教えようか。君がいたあの研究所――あそこを壊したのは、実は僕なんだ」
レオンの眉がぴくりと動く。
「……なんだと? 俺はてっきり、実験の口封じか何かで魔族が……」
「あいつらが自分たちの『最高傑作』を壊したりはしないよ。あの日、君を連れ出し、あの忌まわしい術式の連鎖を断ち切るために、僕が全てを灰にした。君は魔族によって全てを奪われたと思っているかもしれないけれど……そのきっかけを作ったのは、この僕なのさ」
キャロルは、レオンの反応を確かめるように、どこか儚げで、けれど残酷なほど綺麗な笑みを浮かべた。
夜風に目を細め、どこか遠くを懐かしむように言葉を継いだ。
「君のその力を見た時、僕と君の運命はあの瞬間に決まったんだ。だから君を拾い、君を育てた。……君には、勝手に運命を決めてしまって悪いことをしたかな」
突き放すようなキャロルの言葉。だが、レオンは表情を変えることなく、ただ真っ直ぐに夜の闇を見据えていた。
「今更、そんなことはどうでもいい。過去の過ぎたことだ」
短く、切り捨てるようにレオンは言った。
「……ただ、俺はお前に感謝している。あの日、死にかけていた俺達の命を拾ってくれた。生きるための、戦うための術を教えてくれた。そして……この国に来て、最高にいい奴らにも出会えた。全部、お前が俺を連れ出してくれたからだ」
キャロルは意表を突かれたように、一瞬だけ目を見開いた。そして、くすりと小さく笑う。
「本当に、今日はどうしたんだい。いつにもなく素直だなぁ。そんなことを言うなんて、よっぽど風邪でも引いたのかい?」
「……茶化すな。俺は、お前が思っている以上に何も知らない。魔族のことも、術式の深淵も、そしてお前のことだってな。だから、まだまだ教えてもらいたいことがたくさんあるんだ」
レオンは隣に立つ師を、初めて対等な一人の人間として、その瞳に強く映した。
「だから俺は、お前を救うために旅に出る。……死なせやしない。世界の理を書き換えるってんなら、お前が消えちまうっていう理から壊してやる。それが言いたかっただけだ」
その言葉に、キャロルの瞳がわずかに揺れた。
「……あはは。参ったな。弟子に救われるなんて、僕も焼きが回ったかな」
キャロルはそう言いながら、ひび割れた自分の手を見つめる。先ほどまでの虚無的な笑みとは違う、どこか人間らしい、温かな色がその横顔に宿っていた。
「わかったよ、レオン。なら……君の旅路の果てに、僕の『魔法』を見つけてきておくれ。最高の報告、期待しているよ」
月夜の下、二人の師弟は言葉少なに見つめ合い、来たるべき別れと、その先の再会を誓い合った。




