第83話 意志
「……とりあえず、あんたは大人しく寝てなさい。いい? 無茶したら承知しないからね」
クラリスが少し乱暴に毛布をレオンの肩まで引き上げた。
「そうですわ、カスパールさん。まずは身体を治すのが先決ですわ。私たちがついていますから、安心してお休みになって」
エレナの穏やかな声に促され、レオンは重い瞼を閉じた。
「そうだな……。悪いが、そうさせてもらう……」
二人の気配を感じながら、レオンは再び深い眠りへと沈んでいった。
――だが、訪れたのは安らぎではなかった。
夢の中、レオンはどこまでも続く美しい草原に立っていた。
暖かな風が吹き抜け、花々が咲き乱れる穏やかな世界。
ふと、レオンが足元の草に手を触れた、その瞬間だった。
「――っ!?」
レオンの左手から、どす黒い「虚無」の波動が濁流のように溢れ出した。
触れた場所から緑は一瞬にして炭のように砕け、鮮やかな色彩は灰色に塗り潰されていく。
命を育んでいた大地はひび割れ、草木は枯れ果て、吹き抜ける風さえも砂を巻き上げる死の突風へと変貌した。
レオンが触れるものすべてが、彼の意志とは無関係に、絶望的な荒野へと作り変えられていく。
「やめろ……! 止まれ!!」
叫びと共に、レオンは跳ねるように起き上がった。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ!!」
全身が嫌な汗でびっしょりと濡れている。
心臓が喉から飛び出しそうなほど激しく脈打ち、呼吸が追いつかない。
今の、夢か……?
それとも、あのグラヴィスの血が見せた「いつか起こる未来」なのか。
レオンは暗い部屋の中で、震える自分の左手を見つめた。
闇に溶けそうなその手は、先ほどの夢と同じように、静かに、そして禍々しく拍動を続けていた。
荒い呼吸を整えながら辺りを見渡すと、窓から差し込む月明かりの中に、ソファで横になっているルシフェリアの姿があった。
レオンはまだ震えが止まらない体を引きずるようにして、音を立てないよう静かにベッドから抜け出した。夢の中の光景が、網膜に焼き付いて離れない。確かめたかった。自分のこの手が、本当に大切なものを壊してしまわないかどうか。
ふらつく足取りで彼女に近づく。
ルシフェリアは静かに寝息を立てていたが、主のわずかな気配と、その不安定な魔力の揺らぎを察知したのか、不意に瞼を震わせた。
「ん……。ご主人様……?」
ルシフェリアが微睡から覚め、ぼんやりとレオンを見上げる。だが、次の瞬間には状況を理解し、弾かれたように目をぱっちりと開いた。
「ご主人様! お体は大丈夫ですか!? まだ動かない方が……!」
ルシフェリアは慌てて立ち上がり、ふらつくレオンを支えようと、迷いなくその左手を取ろうとした。
「……っ!」
左手に触れそうになる瞬間、レオンの脳裏に、草木を枯らし尽くしたあの夢の残像がフラッシュバックする。
「触るな!!」
鋭い拒絶と共に、レオンは触れそうになったルシフェリアの手を強く払いのけた。
パチン、と乾いた音が静かな部屋に響く。
「……っ。……ああ、いや……大丈夫だ。ただの、立ちくらみだ」
レオンは自分の左手を隠すように抱え、荒い息をつきながら視線を逸らした。
払いのけられたルシフェリアの手が、空中で一瞬だけ止まる。彼女の瞳には、驚きと、それ以上に、主の豹変に対する深い困惑と悲しみがよぎった。
部屋の中に、重苦しい沈黙が満ちる。
ルシフェリアは払いのけられた自分の手を見つめ、それから痛みを堪えるような表情で、深く頭を下げた。
「……申し訳ありません。でしゃばりすぎました。何か、温かい飲み物でも取ってきます」
絞り出すような声でそう告げると、彼女は逃げるように部屋を出ていった。その背中を見送ることもできず、レオンは力なくソファに倒れ込む。
「……っ、クソッ……」
自分の左手が恐ろしい。この手で彼女を、あの二人を、そしてこの世界を壊してしまうのではないかという恐怖が、喉の奥までせり上がってくる。
「女の子にあんな態度は酷いなぁ、レオン。あの子、今にも泣きそうな顔をしていたよ」
不意に、部屋の隅から聞き慣れた軽薄な声が響いた。
いつの間にかそこに立っていたキャロルが、壁に背を預けてレオンを眺めていた。
「……キャロル……。俺は、いつか魔族になるのか……?
あの夢みたいに、触れるものすべてを壊して、書き換えてしまうのか?」
掠れた、消え入りそうな声でレオンが問う。
「君は、人間でいたいかい?」
キャロルは歩み寄り、レオンの目を覗き込んだ。その瞳には、いつもの余裕の中に、どこか冷徹なまでの観察眼が宿っている。
「……俺は……」
言葉が続かなかった。
自分が何者なのか、その根源さえ揺らいでいる今、自分がどうありたいかなどという問いは、あまりに重すぎた。
「ふむ。答えが出ないのも無理はないね」
キャロルはそう言うと、ふっと表情を和らげた。
「でも、いつまでも落ち込んでもいられないよ。君が人間でいられる方法、あるいはその力を制御して『人』として生きる道は、ちゃんとあるんだから」
「あいつらを殺すことさ。魔族が消えれば、その血は消える。血も術式で構成されている以上、供給源を断てばいい。単純な論理だろ?」
キャロルは淡々と、けれど残酷なまでに明快な解を口にした。
「だから……」
キャロルは歩み寄ると、レオンの頬を冷たい両手で包み込み、逃げ場を塞ぐようにその顔を持ち上げた。至近距離で、深淵を覗かせるような瞳がレオンを真っ直ぐに射抜く。
「戦え、レオン。誰のためでもない、君自身のためにね。そして……僕を楽しませてよ。君がその絶望をどう書き換えるのか、特等席で見せてもらうよ」
その瞳には、導き手としての優しさと、観察者としての狂気が混在していた。レオンは一瞬、その視線に呑まれそうになったが、不意に、自嘲気味な笑みをこぼした。
「……フッ、お前も魔族だな。好き勝手なこと言いやがって」
レオンはキャロルの手を優しく、だが力強くどけた。その瞳には、先ほどまでの迷いではなく、確かな芯が戻っていた。
「……俺は人間だ。魔族に都合よく書き換えられてたまるかよ。俺は人間でいたい。あいつらと……ルシフェリアやクラリス、エレナと一緒に、明日も同じ景色を見ていたいんだ」
その言葉を聞いた瞬間、キャロルはふっと表情を緩めた。
「はは……。いい答えだ」
キャロルは、少し照れくさそうにしているレオンの頭を、子供を褒めるようにポン、と優しく撫でた。
「よく言えたね、レオン。……もう大丈夫だ。その意志がある限り、君はまだ、君のままだよ」
その手は先ほどよりもずっと温かく、レオンの荒れていた魔力は、不思議と静かに凪いでいった。
部屋を出ると、廊下の向こうから飲み物とおぼんを手にしたルシフェリアが歩いてきた。レオンの姿を見るなり、彼女はハッとしたように足を止める。
「ご主人様、もうお体は大丈夫なのですか? まだお部屋で休まれた方が……」
不安げに揺れる彼女の瞳を見つめ、レオンは迷うことなく歩み寄った。そして、先ほどは強く払い除けてしまった彼女の右手を、今度は左手で、壊れ物を扱うように優しく包み込んだ。
「ああ、もう大丈夫だ。……さっきは、すまなかったな。あんな態度をとるつもりじゃなかったんだ」
「……っ」
ルシフェリアは一瞬、驚いたように目を見開いたが、すぐに頬を緩め、慈愛に満ちた柔らかい笑顔を浮かべた。
「謝らないでください。私は……ご主人様が無事であれば、それだけで。私は、大丈夫です」
そのやり取りを見守っていたクラリスとエレナも、安心したように肩の力を抜く。
「ちょっと、本当に大丈夫なの? さっきまで死にそうな顔してたんだから、あんまり無茶しないでよね」
「そうですわ、カスパールさん。わたくしたち、本当に心配いたしましたのよ」
二人が口々に詰め寄る中、レオンは自分の左手を見つめ、それから前を向いた。
「もういい。いつまでも寝ていられる場合じゃないからな。……グラヴィス、あの野郎に借りを返さなきゃならない」
その瞳には、恐怖を乗り越えた先にある、静かな闘志が宿っていた。




