第81話 渇望
扉を激しく蹴破るようにして、一行はキャロルの研究室へと飛び込んだ。
室内では、キャロルが淡い光を放つ術式をいくつも空中に浮かべ、指先でピアノを弾くようにそれらを調整していた。
「どうしたんだい、そんなに慌てて。僕の静かな研究時間が台無しじゃないか」
「ご主人様が……! キャロル様、お願いです、ご主人様を!!」
ルシフェリアの悲痛な叫び、そして彼女の背中で獣のように呻き、黒い紋様を脈動させているレオンを見て、キャロルの瞳から余裕の色が消えた。
「ん……? 穏やかじゃないね」
キャロルは宙に浮いていた術式を霧散させると、素早くレオンの傍らに寄り、その左手と頸椎のあたりに指を添える。レオンの体から放たれる拒絶反応の衝撃が、キャロルの指先を弾こうとするが、彼女はそれを強引に抑え込んだ。
「これは……。ふん、察しはつくけどね。一応聞いておこうか、誰にやられたんだい」
「……四極星……『墜星』のグラヴィスと名乗ってましたわ。あまりに一方的で、わたくしたち、何もできなくて……」
エレナが悔しさに唇を噛みながら答える。
「あいつ、街中にいきなり現れたのよ! それよりキャロル、レオンはどうなの!? さっきからずっと苦しそうで……死んじゃったりしないわよね!?」
クラリスがキャロルのローブの袖を掴まんばかりに詰め寄る。キャロルはレオンの眼球の状態を確認し、忌々しげに舌打ちをした。
「魔族の血、か……。しかも四極星の直系。これはえげつないね」
キャロルは立ち上がり、研究室の奥にある魔導書や薬品が並ぶ棚へと急ぎながら、冷たく、だが確かな怒りを孕んだ声で言った。
「レオンを魔族化させて、あちら側のお仲間にするつもりかな。あるいは、彼の『虚無』という真っ白なキャンバスに、自分たちの理を塗りつぶして、より強力な『鍵』に作り変えたいのか……。どちらにせよ、悪趣味だよ。グラヴィス、あの筋肉ダルマめ……」
キャロルは一つの小瓶を取り出し、複雑な幾何学模様が描かれた魔法陣を床に展開し始めた。
「いいかい、みんな。今からこの子の内側で暴れている『毒』を分離する。けど、これはレオン自身の『意志』との戦いでもあるんだ。ルシフェリア、そのまま押さえてて。クラリスとエレナは魔力を供給して。一瞬でも術式が途切れたら、この子は完全に『向こう側』へ行っちゃうよ」
キャロルは迷いのない手つきで小瓶の栓を抜き、レオンの口元へ運んだ。琥珀色に透き通ったその液体が喉を通ると、それまで獣のようにのたうち回っていたレオンの身体から、黒い紋様が潮が引くように消えていく。
「……あ……っ」
レオンは短く吐息を漏らすと、憑き物が落ちたように全身の力を抜き、深い眠りに落ちた。
「その小瓶は……? 聖教会の秘薬か何かですの?」
エレナが驚きと安堵の混ざった声で尋ねる。キャロルは空になった小瓶を無造作に机に放り投げ、自身の指先の傷を弄りながら、どこか遠くを見るような目で答えた。
「僕の血さ。正確には、僕の血をベースにした抑制剤だね。……それで魔族化を抑制した。けど、レオンは元々、半分魔族として造られたようなものだからね。グラヴィスの血という猛毒に反応するか、僕の血という枷に反応するか、今は五分五分といったところかな」
キャロルは寝息を立て始めたレオンを見つめ、ふっと自嘲気味に口角を上げた。
「まぁ、今は落ち着いてるみたいだから大丈夫だと思うけどね。あの子の『虚無』が、幸いにもグラヴィスの術式を少しずつ食い潰してくれている」
「ご主人様……。よかった……本当によかった……」
ルシフェリアは震える手でレオンを抱きしめ、その温もりを確かめるように何度も名前を呼んだ。その瞳には、主を失いかけたことへの恐怖と、救われたことへの深い感謝が溢れていた。
「……さて。いつまでも床に転がしておくわけにもいかないだろう? そっちの部屋に予備のベッドがあるから、使いな。あの子が目を覚ますまで、ゆっくり休ませてあげるといい」
キャロルの言葉に従い、ルシフェリアはレオンを軽々と抱え上げた。そのまま奥の部屋へと入り、清潔なシーツの敷かれたベッドに、宝物を扱うような手つきで彼を寝かせた。
クラリスとエレナも、泥のように溜まった疲労を吐き出すように、部屋の隅で互いの無事を確かめ合う。
キャロルは一人、研究室の静寂の中で、闇が深まった窓の外を睨みつけた。
「……グラヴィス。あの日、君たちが求めた『魔法』への渇望を、今度はこの子に押し付けるつもりかい? ……そんなことは、僕が絶対にさせないよ」
天才魔術師の呟きは、誰に届くこともなく、夜の帳に溶けていった。
見渡す限りの赤茶けた土と、吹き荒れる乾いた風。
生き物の気配すら絶えた荒野の真ん中で、グラヴィスは大きな岩に腰を下ろしていた。
その手には、王都の市場で「くすねてきた」瑞々しい果物と、豪快に炙った肉の塊がある。
「ふん……人間の食い物ってのは、効率は悪いが味の術式だけは妙に整ってやがる。……だが、俺を満たすにはまだ足りんな」
グラヴィスは骨ごと肉を噛み砕き、無造作に飲み込む。魔族となった彼にとって、食事は生存のための手段ではなく、ただの暇つぶしに過ぎない。
ふと、彼の脳裏に、数刻前に見たあの少年――レオン・カスパールの顔が浮かんだ。
自分の血を流し込まれ、内側から崩壊しかけていた、あの「不完全な虚無」。
「カカッ……あの小僧。あのまま死ぬか、あるいは自分を喰らい尽くして化けるか……」
グラヴィスは夜空を見上げ、牙を剥き出しにして笑った。
その瞳には、世界の破滅への興味など微塵もない。あるのは、自分を殺し得るほどの「強者」への、純粋で狂気じみた期待だけだった。
「小僧。お前が本物になれば、これまでの退屈がすべて吹き飛ぶような、面白い戦いになりそうだ」
「――ハハハハハハ! 楽しみにしてるぜ、レオン・カスパール!!」
傲慢な笑い声が、夜の荒野に地鳴りのように響き渡る。
その殺気と魔力に当てられ、周囲の岩が自重に耐えきれず粉々に砕け散った。
四極星という「完成された絶望」が、その牙を研ぎ澄ませながら、獲物の目覚めを待っている。




