始まり
一千年前――。
世界に満ちる魔力は今よりもずっと濃く、術式の体系もまだ未完成だった混沌の時代。
そこには、既存の理を超えようとする六人の若き魔術師たちがいた。彼らは身分も種族も超えて集い、日夜、世界の深淵を解き明かすための研究に没頭していた。
ある夜、キャロルは独り、禁忌とも言える術式の特異点に到達する。
「……できた」
震える指先が指し示したのは、羊皮紙の上に描かれた、神経系のように複雑に絡み合う未知の構造式。
「人間の体に直接、術式を組み込む……。これなら、媒介となる魔道具すら必要ない。魔力を流すだけで、思考がそのまま現実になる……。これはすごい。これさえあれば、人間は道具に縛られることなく、本当の『自由』を手に入れられる……!」
キャロルの瞳は、発見の喜悦に輝いていた。
当時の人間も、魔術はあくまで「外部の道具」を介して発動するもの。それを肉体そのものに刻むという発想は、まさに神の領域への挑戦だった。
「まるで……お伽話に出てくる『魔法』みたいに……!」
だが、その高揚感のすぐ後に、冷たい予感が彼女の胸をかすめた。
人間の肉体という、あまりにも脆弱で不確かな器。そこに、純粋な魔力の塊である術式を直接流し込めば、一体何が起きるのか。精神は耐えられるのか、魂の形は維持できるのか。
(……どんな負担がかかるか、今の僕にはまだ計算しきれない)
仲間たちは、皆それぞれに卓越した才能を持っている。けれど、一度この理論を話してしまえば、知的好奇心に突き動かされる彼らは、迷わず自らを実験台にするだろう。
「……まだ、言えない。確証が持てるまでは、僕だけの秘密にしておこう」
キャロルはそう呟くと、書きかけの羊皮紙を慌てて懐に隠した。
これが後に、自分たち六人の運命を……そして世界の形そのものを永遠に変えてしまう「始まりの術式」になるとは、この時の彼女はまだ知る由もなかった。
研究室の重い扉を閉め、廊下に出ると、そこには一人の青年が立っていた。
フォルネウス。後に「四極星」の一人として世界を震撼させることになる男だが、今の彼はまだ、知的好奇心に瞳を輝かせる一人の若き研究者に過ぎなかった。
「どうしたんだい、キャロル。随分と遅くまで籠もっていたようだけど、何か良い発見はあったかな?」
フォルネウスは親しげに、屈託のない笑顔で問いかけてくる。キャロルは懐に隠した羊皮紙の感触を悟られないよう、努めて平静を装った。
「……そっちこそどうだい、研究の方は。何か進展はあった?」
キャロルが問い返すと、フォルネウスは待っていましたと言わんばかりに、手元にある奇妙な形の魔道具を掲げて見せた。
「これを見てよ! この魔道具を使えば、寝ている間に自分の好きな夢を見られるんだ。望む世界を、眠りの中で完璧に構築できる。……凄くないかい?」
「それはすごいね。面白そうだ」
キャロルの言葉に嘘はなかった。フォルネウスの創り出すものはいつも独創的で、人々の心を豊かにする可能性を秘めていた。
「だろう? 誰もが幸せな夢を見られるようになれば、争いなんてなくなるかもしれない。僕はね、そんな風に『不可能を可能にする力』を作りたいんだ」
無邪気に理想を語るフォルネウスの瞳。
その真っ直ぐな光を見て、キャロルは改めて決意した。
(やっぱり、まだ言えない。あの子のこの純粋な夢を、僕の不確かな術式で汚すわけにはいかないよ……)
二人は肩を並べて歩き出す。
千年前の、まだ誰もが「人間」として、明日への希望を語り合えた夜の出来事だった。
ある日の午後、キャロルがいつものように研究室の扉を開けると、室内には異様な熱気が立ち込めていた。
中央の円卓を囲むように、仲間である5人が集まっている。その中心には、リーダー格である男が、一枚の羊皮紙を広げて待ち構えていた。
「……これはなんだ、キャロル」
男が鋭い視線で問い詰める。その手にあるのは、キャロルが隠していたはずの――人間の肉体に術式を刻む理論が記された、あの研究記録だった。
「それは……。まだ研究中だったんだよ。もっと確実なものになって、完成してからみんなに話そうと思ってね」
キャロルは動揺を抑えながら、努めて冷静に答えた。しかし、男は震える手でその紙を叩くように広げ直した。
「これを黙っていたのか? これが……この理論が完成すれば、人間は媒介なしに、真の意味で『魔法』をその身に宿すことができる。僕たちがずっと追い求めていた奇跡が、ここにあるじゃないか!」
「待ってくれ、それはまだ理論上の話だ! 未完成なんだよ。人体への干渉が強すぎる、とてもじゃないけど今すぐ実行なんてできない!」
必死に食い下がるキャロルだったが、周りの反応は彼女の予想とは正反対だった。隣で紙を覗き込んでいたフォルネウスが、うっとりとした表情で呟く。
「……でも、理論上は可能だろう? キャロル。君の計算は完璧だ。ここにある術式を少し書き換えれば、精神の保護も間に合うかもしれない」
「そうだぜ。これをすれば、俺は最強になれる。魔道具の出力限界に悩まされることもなくなるんだ!」
ガタイの良い男が、己の太い腕を見つめながら野心に満ちた声を上げる。
「みんな、落ち着いてくれ! これは危険なんだ!」
キャロルの警告は、黄金の果実を目の前にした彼らの耳には届かなかった。かつて「誰かを幸せにするため」に魔術を志した若者たちの瞳に、この時、初めて「人間」を超越せんとする危うい光が宿った。
千年の時を超えて、今の魔族へと繋がる狂気の歯車が、この瞬間から回り始めてしまった。
「1人で抜け駆けして、神の如き力を独占するつもりか。あぁ? キャロル」
リーダーの男の瞳は、もはや知的な探求者のそれではなく、力への渇望に濁っていた。
「違うんだ! 抜け駆けなんて……そんなこと。ただ、あまりに危険すぎるんだよ! 待ってくれ、みんなで、もっと安全な方法を考えよう?」
キャロルは必死に手を伸ばしたが、男は冷笑を浮かべ、その紙を高く掲げた。
「何を言う。この理論は完璧だ。……キャロル、君はやっぱり、僕たちの中で一番の天才だよ。こんな『答え』、君にしか辿り着けない」
「「「魔法を、この手に」」」
5人は同時に立ち上がると、迷うことなく自身の魔道具を己の心臓へと突き立てた。
「やめろ! 止まれ! どんな負担がかかるか、魂がどう変質するか、まだ僕にも分からないんだ! やめてくれ!!」
キャロルの叫びは、重なり合う詠唱の嵐にかき消される。魔道具が肉体という「物質」の境界を越え、術式として心臓と同化し、筋肉の繊維一本一本にまで魔法陣が這い回っていく。
「ふ、ふははは……! どうだ、この感覚……! 世界のすべてを……支配できる……完璧だ……完璧だろう、キャロル!!」
リーダーの男が勝ち誇ったように叫ぶ。だが、その直後だった。
「が、ぁ……っ!!」
完璧だと言ったその顔が、絶望に歪んだ。あまりに膨大な魔力の奔流。人間の脳が、神経が、魂の容量が、キャロルの描いた「神の術式」という激流に耐えきれず、内側から爆ぜ始めたのだ。
「あああああ! 身体が……身体が熱い!! 溶ける、魂が溶けるぞ!!」
ガタイの良い男が地面を転げ回り、己の喉を掻きむしる。フォルネウスも、他の仲間たちも、言葉にならない絶叫を上げながらのたうち回った。
「あ……ああ……」
キャロルの目の前で、かつての友たちの身体がミシミシと音を立てて膨れ上がり、皮膚の下で術式が発光し、指先は鋭い鉤爪へと、瞳は人間ならざる縦長のものへと、醜く、そして美しく変貌していく。
それは、人間という種を捨て、「術式そのもの」へと成り果てる残酷な儀式。
『魔族』がこの世に産声を上げた瞬間だった。
魔族へと成り果てた5人は、もはやかつての面影など微塵もなかった。
膨れ上がった魔力が内側から魂を焼き、その苦しみを紛らわすように、彼らは本能のままに周囲を破壊し始めた。
「……あ、あ……が……っ!」
暴走した魔力の余波がキャロルを襲う。かつての仲間が放った、制御を失った暴力の奔流。キャロルの体は吹き飛ばされ、壁に叩きつけられた。骨は砕け、視界は赤く染まる。
(……死ぬのか。僕が……あの子たちをこんなにして……僕だけが……)
薄れゆく意識の中、キャロルは絶望の底で手を伸ばした。
自分の懐にある、あの忌まわしき羊皮紙。
自分だけが死んで逃げることは許されない。この「間違い」を生み出した責任を取らなければならない。
キャロルは震える指先で、自身の胸に術式を刻み込んだ。
「あ、あああああああぁぁぁ!!」
灼熱の感覚。脳が沸騰し、全身の細胞が術式という名の異物に書き換えられていく。
激痛に意識が飛びそうになるたび、キャロルは心の中で叫び、謝り続けた。
(ごめん……ごめん……フォルネウス……みんな……! 僕が、僕がこんなものを思いつかなければ……!!)
やがて、狂おしい熱が静まり、代わりに人ならざる力が全身を駆け巡った。
無理やり動かした体で、キャロルは立ち上がる。目の前では、異形となった5人が理性を失い、吠え、暴れ続けている。
「僕の、せいだ……。あんなものを……思いついた僕の……」
キャロルは溢れ出す涙を拭う暇もなく、必死に走り出した。
背後で響く友たちの咆哮を耳に焼き付けながら。
「ごめん、みんな……! 僕が必ず止めるから、元に戻す方法は僕が見つけるから……! だから、もう少しだけ待ってて……!」
振り返ることなく、キャロルは研究室を、そして仲間たちを捨てて逃げた。
その背中に、かつての穏やかな日々が崩れ去る音が、いつまでも追いかけてきた。
それから、キャロルは名を変え、姿を変え、他地方へと逃げ延びた。
追われる恐怖と、終わることのない後悔。
数十年、数百年の時を費やし、彼女は独りで研究を続けた。自分たちの肉体を、そして世界をここまで歪ませてしまった、あの「力」の正体を突き止めるために。
そして、膨大な時間を経て彼女が辿り着いたのは、あまりにも虚しい結論だった。
(……ああ、そうか。やっぱり、そうだったんだね)
目の前の複雑な術式を見つめ、キャロルは力なく笑った。
(『魔法』なんて……どこにもなかったんだ。あるのはただ、術式という残酷な理屈に基づいた『魔術』だけ。僕たちは、最初から存在しない奇跡を求めて、自分たちを、世界を、こんなに汚してしまったんだね……)
「魔法は存在しない。あるのは魔術のみ。」
その言葉は、自分自身への戒めであり、かつての仲間たちへの贖罪の始まりだった。
キャロル・エインズワースという「偽りの名前」で、彼女は長い、長い旅へと踏み出した。いつか出会うはずの、運命を変える「あの子」を待つために。




