第76話 正体
研究室の窓から差し込む朝日の光が、舞い上がる埃を白く照らしている。キャロルはいつものように無造作に置かれた椅子に座っていたが、その空気はどこか遠い場所を見つめているようだった。
「……昨日、古書店の婆さんに会ったぞ。あんたによろしく、だとさ」
レオンの言葉に、キャロルは一瞬だけ目を細めた。
「ん? ああ……あの子か。ふふ、まだあのお店を守っていたんだね。懐かしいな」
「あの子」という表現に、その場にいた全員が息を呑む。昨日の老婆は、どう見てもキャロルより数十年は年上に見えたからだ。レオンは無言でポケットから手帳を取り出し、キャロルへ差し出した。
「後、これを貰ったんだがな」
キャロルが手帳を受け取ろうとしたその瞬間、ページの間から一枚の古びた写真が滑り落ち、床に裏返って落ちた。
キャロルは動きを止め、無言でその写真を拾い上げる。写真を見つめる彼女の横顔から、いつもの茶目っ気が消え、代わりに底知れない静寂が広がった。
「……聞いていいか。あんた、一体何者だ?」
レオンが低く、逃げ場のない声をぶつける。
「その写真、5、60年前のものだろう。なのになぜ、あんただけが全く変わらないんだ。時間は全員に平等に流れるはずだ。……あんたを除いてな」
「そうよ。魔法だってそう! 人間は術式を具現化するために魔道具を介さなきゃならない。なのに、あなたは杖も瓶も持たずに、その身一つで空間を操るじゃない。そんなの、人間には不可能なはずよ!」
クラリスが震える指でキャロルを指差す。その隣でエレナも、確信に近い恐怖を瞳に宿して言葉を継いだ。
「姿が何年も変わらず、魔道具なしで魔法を操る。……学術的にも歴史的にも、そんな存在はたった一つしか考えられませんわ。それでは、まるで……」
「まるで、魔族……。それも、王が危惧するような特級の……」
ルシフェリアがレオンの前に一歩出、いつでも武器を抜けるよう身構える。研究室内の温度が数度下がったかのような錯覚。
キャロルは、写真の中の若かりし頃の老婆――かつての友の笑顔を指先でなぞり、ふっと自嘲気味に笑った。
「……隠し通せるほど、この世界は優しくないからね。それに、レオン。君が自分の本質に近づき始めた今、僕だけが嘘をつき続けるのも、フェアじゃない」
キャロルは写真を机に置くと、ゆっくりと立ち上がった。その瞬間、彼女を中心に見たこともないほど精密で、黄金色に輝く術式が幾重にも展開され、部屋の空間そのものが歪み始める。
「いい頃合いだ。話そうか。僕が何者で……なぜ、この国で『人間』のフリをして、君たちを育てているのかをね」
キャロルの言葉が落ちた瞬間、研究室内の空気が凍りついた。
「ご想像の通り、僕は魔族だよ。……正確には、この肉体も魂の術式に合わせて人間を模倣しているだけの、仮初めの姿に過ぎないけれどね」
キャロルはあっさりと、だが残酷なほど明確に告げた。彼女の背後に展開された黄金の術式が、人間には到底不可能な密度で明滅している。
「……やはり、そうか。なら、なぜあんたは人間の、俺たちの側にいるんだ? 人間と魔族は相容れない存在のはずだ。あいつら……フォルネウスたちは、世界を壊そうとしているんだぞ」
レオンの問いに、キャロルは悲しげでもあり、楽しげでもある複雑な微笑を浮かべた。
「君たちは、どうやって魔族が生まれたかを知っているかい?」
「えーと、えーと……あれ、なんだっけ? 突然変異、とかじゃなかったっけ……」
クラリスが混乱した様子で頭を抱えると、エレナが震える声を絞り出した。
「……一般的には、自然界に漂う高濃度の魔力と術式が、何らかの拍子に意志を持って結集した『術式生命体』……この世界のバグのような存在だと、そう学びましたわ」
「優等生だね、エレナ。教科書的にはそれが正解だ」
キャロルは机の上の写真を指先で弾いた。
「けど、真実はもっとひどいものさ。魔族はね、元々は人間だったんだよ。……より正確に言えば、あまりに高度な魔術を極めすぎ、己の魂さえも純粋な術式に書き換えてしまった『人間の成れの果て』さ」
「人間が……魔族に……?」
「そう。術式を極めれば、人は肉体という器すら超越し、不老不死に近い力を手に入れる。だけどね、その過程で『人間としての心』……つまり、不確定で非効率な感情は、純粋な術式の邪魔になって切り捨てられてしまう。そうして生まれたのが、力だけを求め、世界の理さえも自分勝手に書き換えようとする今の魔族たちだ」
「……では、ガルドスを魔族に変えたのも……」
レオンの問いに、キャロルは淡々と、しかしどこか冷淡な響きを含んだ声で頷いた。
「それと同じさ。フォルネウスが強制的に術式を流し込み、彼の魂を『書き換えて』しまったんだろう。無理やりやれば器が耐えきれずに暴走する……それが、あのアステリアで起きた悲劇の正体だよ」
キャロルは窓の外、平和を取り戻したはずの街を見つめる。
「あいつらはもう、人間だった頃のことなんて忘れちまった。心を切り捨て、より強固な、より美しい術式だけを追い求める……。それが魔族の正体さ。僕もかつては、ただひたすらに魔術を追い求めた。……今思えば、救いようのない馬鹿な奴だったってことさ」
「なぜ……そんなことを……。あんたほどの術師が、どうしてそんな化け物になる道を選んだんだ?」
レオンが絞り出すように問うと、キャロルは自嘲気味に、そしてこの上なく悲しげな顔で答えた。
「――『魔法』を求めた結果だよ」
「魔法……?」
レオンが聞き返すと、キャロルは静かに、しかし断固とした口調で言葉を重ねた。
「そう。僕たちは『魔法』を求めたんだ。この世界に存在する、術式に基づいた技術体系としての『魔術』じゃない。理屈も、構成も、対価も必要としない、真の意味での奇跡……万能の力である『魔法』をね」
「……達? 今、キャロル様は『僕たち』と仰いましたわね?」
エレナがその言葉の違和感に気づき、顔を青ざめさせる。キャロルはゆっくりと振り返り、絶望的な事実を告げた。
「そうだよ、エレナ。四極星……そしてあの魔王はね、かつての僕の仲間さ。同じ理想を追い求め、共に人間を辞めた、かつての『友』なんだよ」
研究室に、静かな戦慄が走る。
目の前の師匠が、自分たちが守ろうとしている世界の敵――その中枢にいた存在だったという事実に、クラリスは言葉を失い、ルシフェリアは無意識にレオンの前に身を投じていた。
「僕だけが……途中で怖くなって逃げ出したのさ。人間としての『心』を、忘れられなくてね」




