第75話 謎
賑やかなメイン通りから一本外れ、陽の光が届きにくい細い路地。湿った風が通り抜けるその裏通りで、レオンは足を止めた。
「……?」
左手の刻印が、チリ、と小さく疼く。何かに呼ばれたような奇妙な感覚。視線の先には、煤けた看板が揺れる一軒の古書店があった。
「少し、見ていっていいか?」
「えっ、こんなところに古書店なんてあったんですのね。わたくしも知りませんでしたわ」
エレナが不思議そうに周囲を見渡す。確かに、地図にも載っていなさそうな、古びてひっそりとした佇まいだ。
「……なんかここ、気味悪いわよ。魔力の流れが淀んでるっていうか、変な感じがする」
感覚の鋭いクラリスが、腕をさすりながら眉をひそめる。だがレオンは、何かに吸い寄せられるように店の扉へと手をかけた。
「悪い、少しだけだ」
カラン、と乾いた鈴の音が響き、店内に一歩足を踏み入れる。
そこは、外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。天井まで届く棚には、背表紙の文字すら掠れて読めない無数の本がぎっしりと並んでいる。
「……なんだ、これ」
レオンは棚の一つに指を這わせた。
並んでいるのは、学校の図書館や王宮の書庫でも見たことがない、異様な装丁の魔導書ばかりだった。革製ではない、何かの生物の皮のような手触り。そして、表紙に刻まれた術式は、複雑すぎて「文字」というよりは「生きている紋様」のようにうごめいて見える。
「……カスパールさん、見てください。この本の術式、私の知る体系とは全く異なりますわ。まるで……別の世界の言語のようです」
エレナが恐る恐る一冊を指差す。
その時、店の奥から、紙が擦れるような乾いた声が響いた。
「……ほう。その術式の歪みに気づくとは。目端の利くお嬢さんだ」
薄暗い店内の奥から、腰の曲がった老婆がゆっくりと這い出すように現れた。その瞳は濁っているようでいて、時折鋭い光を放っている。
「あんたら……キャロルの教え子かい?」
老婆の問いに、レオンは警戒を強めて問い返した。
「……分かるのか?」
「分かるさ。あいつの魔力は、一度嗅いだら忘れられないほど、とびきり異質で傲慢だからねぇ」
「随分と親しげに話すけど、あなたキャロルの知り合いなの?」
クラリスが横から尋ねると、老婆は「カカッ」と枯れた喉で笑った。
「昔の馴染みさ。腐れ縁と言ってもいい。この店に並んでる本は 私もよく分からないのさ。ほとんどは、あいつが勝手に置いていくんだ。『研究室に置けないような物騒な代物は、ここが一番落ち着く』ってねぇ」
「ああ……まぁ、あの研究室の惨状を見れば、入り切らないってのは納得だわね……」
クラリスが引きつった笑顔で乾いた笑いをもらす。
老婆はカウンターの下から、古びた、けれど大切に保管されていた一枚の写真をスッと差し出した。
「あんたらが今日ここに来ることは、分かっていたよ」
「……その写真は?」
レオンが身を乗り出して覗き込む。セピア色に変色したその写真には、二人の人物が写っていた。一人は、今と全く姿が変わらない、不敵に微笑むキャロル。そしてその隣には、控えめに笑う一人の可憐な人間の少女が並んでいた。
「……! キャロル様……今と全くお姿が変わっていませんわ。ですが、隣の方は……?」
エレナが驚きに目を見開く。200年前の日記の噂が本当だとしても、あまりに不自然だ。すると、老婆は皺くちゃの手で自分の胸を指した。
「それは私だよ。……驚いたかい?」
「えっ……!? あ、あなた、この写真の……?」
クラリスが老婆と写真を交互に見比べ、絶句する。写真の中の少女が、数十年という時の流れを経て目の前の老人になっている一方で、その隣に立つキャロルだけが、時を止めたように、残酷なほど若々しいままそこにいた。
「キャロルだけは変わらない。あの人は『時』という術式からすら、外れた場所にいるのさ……」
老婆の言葉に、店内は重苦しい沈黙に包まれた。レオンは写真の中のキャロルの瞳を見つめる。その瞳は、今と変わらず、全てを見通しているようでいて、どこか遠くの悲劇を見つめているようにも見えた。
「化け物じみているとは思っていたけど、老けないなんて……そんなの、術式の理屈に合わないじゃない! 人間なら誰だって年は取るでしょ!?」
クラリスが震える声で叫ぶ。隣でルシフェリアが、冷静ながらもどこか困惑した様子で頷いた。
「わたくしも……初めてお会いした時から一分一秒、髪の毛一本すら変わっていないと感じてはいましたが」
「全てが謎ですわ。200年前の日記の話だって、都市伝説だとばかり思っていましたけれど、こうして目の前で証拠を見せられては……」
エレナが写真を凝視する中、レオンは老婆の濁りのない瞳をじっと見つめ、核心を突いた。
「……あんたも、魔術師なのか?」
「そうさ。もう、まともな術式も組めない枯れ木だけどねぇ」
老婆は遠い過去を慈しむように、細い指で写真をなぞった。
「60年前……。私はあいつに出会ったのさ。この王都の片隅で、今と寸分違わぬ姿で笑うあいつにね」
「60年前……。ちょうどその頃ですわ! キャロル様がアステリア王国に現れたと、お父様が仰っていました。先代国王陛下ですら全幅の信頼を置くようになった始まりの時期……」
エレナの言葉に、老婆は「カカッ」と乾いた笑いを上げた。
「あいつがこの国に来た時、私はまだ、この写真のように若くて希望に満ちていた。あいつに魔術を教わり、共に研究をしたこともあったよ。けれど……気がつけば、私はこうして動くのも億劫な老婆になり、あの子……いや、あのお方は、欠けた月が満ちることもなく、ずっとあの時のままだ」
老婆の言葉には、嫉妬ではなく、ただ深い諦観と微かな哀しみが混じっていた。
「レオン、と言ったかい。キャロルがあんたをここに寄越したのは、ただの偶然じゃない。その左手を見て、あいつが何を思っているのか……私には、少しだけ分かる気がするよ」
老婆は棚の奥から、ボロボロに擦り切れた一冊の小さな手帳を取り出した。
「これは私が若い頃、あいつの言葉を書き留めたメモだ。今のあんたには、これが必要かもしれない」
レオンが手帳を受け取ると、それは驚くほど軽く、しかし確かな重みを持って彼の手に収まった。
「あの子が言っていたこと……昔は意味が分からなかったけど、あんたに出会ってやっと分かったよ。あの子は、ずっと待っていたんだね」
老婆はそれ以上は語らず、ただ穏やかな笑みを浮かべてレオンを見つめた。
「行きな。あの子によろしくと言っておくれ。……もう、会うこともないだろうけどね」
「……ああ、言っておくよ」
レオンは短く答え、手帳を懐にしまい込んだ。クラリスやエレナたちは、老婆の放つ独特の空気に圧倒されながらも、静かに一礼して店を後にした。
カラン……と、扉の鈴が最後の一音を響かせて止まる。
再び静寂に包まれた店内で、老婆は深く椅子に腰を下ろした。棚に並ぶ無数の魔導書たちが、その役割を終えたかのように、わずかに放っていた魔力の光を失っていく。
老婆は窓から差し込む、埃の舞う淡い光を眺めながら、遠く過ぎ去った日々を思い出していた。
「これが私の役割……。あの子との約束、これでやっと終わったよ」
その声は満足げで、どこか安堵に満ちていた。
彼女が守り続けてきたのは、本ではなく、いつか現れる「鍵」へと繋ぐための、たった一つの希望だった。
老婆はゆっくりと目を閉じる。その口角には、写真の中の少女と同じ、淡い微笑みが浮かんでいた。
店を出ると、街の喧騒がまるで魔法が解けたかのように戻ってきた。
「……なんか、不思議な人だったわね。本当に、キャロルの昔の知り合いだったなんて」
クラリスが振り返るが、そこにある古書店は、もはや周囲の風景に溶け込み、誰の目にも留まらないほど存在感を消していた。
「あの手帳……中には何が書かれていますの?」
エレナが尋ねるが、レオンは歩みを止めなかった。
「……今はまだ、開かないでおく。キャロルのところに帰ってからだ」
レオンは胸元にある手帳の感触を確かめ、夕暮れに染まり始めた王都の道を、一歩ずつ踏みしめるように歩き出した。
王都の休日は、終わりを告げようとしていた。
だが、彼らが手にしたのは、ただの買い物袋ではなく、この世界の理に触れるための、重く、鋭い真実の破片だった。




