第73話 少しの平穏
工房の外に出ると、空は既に深い群青色に染まっていた。ジルヴァは一度だけ工房の扉を振り返り、重い溜息を吐き出すと、レオンたちの方へ向き直った。
「俺は西部に戻るぜ。ガルドスのいなくなった南部の方も、俺が見て回らなきゃなんねぇしな」
「……ああ。何かあったら呼んでくれ。すぐに駆けつける」
レオンの言葉に、ジルヴァは少しだけ口角を上げた。
「そっちこそ、何か分かったら教えてくれよ。……お前らのその若さが、今の王国には一番の希望かもしれねぇからな」
ジルヴァはそれ以上言葉を重ねず、背を向けて歩き出した。別れの挨拶代わりに、手のひらをヒラヒラと無造作に振るその後ろ姿には、友を失った悲しみを任務という名の鎧で隠し、前へ進もうとする大人の覚悟が滲んでいた。
レオンたちは、その背中が夜の闇に消えるまで静かに見送っていた。
「……書き換える、か」
ポツリと漏れたレオンの独り言に、エレナが不安げな視線を向ける。
「カスパールさんの力……。もし本当に、世界を書き換えるような力があるのだとしたら……それはあまりにも、一人の人間が背負うには重すぎますわ」
「俺には分からない。この左手が、ただ術式を壊すだけのものなのか、その先があるのか。……キャロルなら何か知っているんだろうが、あの人が全てを話すとは思えないしな」
レオンは左手の拳を強く握りしめた。
「でも、レオン。あんたがどんな力を持っていようと、あんたはあんたよ。でしょ?」
クラリスが横から覗き込むようにして、努めて明るい声で言った。レオンは一瞬だけ驚いたように彼女を見て、それからふっと視線を逸らした。
「……ああ。そうだな」
「左様でございます、ご主人様。何が起ころうとも、わたくしがその側を離れることはございません」
ルシフェリアがレオンの影に重なるように一歩歩み寄る。
夜風が王都を通り抜けていく。
ガルドスが遺した警告の意味、そしてレオン自身の存在の真実。
全ての謎がキャロルへと繋がっていることを予感しながら、彼らは静まり返った夜の道を、自分たちの居場所へと歩き始めた。
夜の王都を歩きながら、戦いの緊張が解けた四人の間には、どこか穏やかな空気が流れていた。
「復興も一段落したし、とりあえずは一区切りだな。明日からは少し落ち着けそうだ」
レオンが少しだけ肩の力を抜いて言うと、エレナが優雅に頷いた。
「そうですわね。この数日、生きた心地がいたしませんでしたもの。少し羽を伸ばす時間も必要ですわ」
「だったらさ、明日学校も休みだし、みんなで遊びに行こうよ! せっかく街も活気を取り戻してきたんだし!」
クラリスが名案だと言わんばかりに拳を握って提案する。
「いいですわね。わたくし、新しいリボンやお洋服も見たいと思っておりましたの」
「あ、それならわたくしも。最近は戦いばかりで、夕食の食材も底を突きかけています。新鮮なものを買い出しに行きたいです」
ルシフェリアまでもが乗り気な様子を見て、レオンは嫌な予感がしたのか、露骨に顔をしかめた。
「おい……まさかとは思うが、俺を荷物持ちにするつもりじゃないだろうな。それだけは勘弁だぞ」
「何言ってんのよ! こんなに可愛い女の子3人と一緒に出かけられるんだから、そのくらい当然でしょ? まさか私たちに重い荷物を持たせようっての!?」
クラリスに詰め寄られ、エレナとルシフェリアからも期待に満ちた(あるいは逃さないという)視線を向けられ、レオンは観念したように両手を上げた。
「……分かったよ。やるよ、荷物持ち。ただし、俺が持てる範囲にしてくれよ」
「やった! そうこなくっちゃ!」
「ふふ、さすがはレオンさん。頼りにしておりますわ」
「ありがとうございます、ご主人様。わたくしも精一杯、ご主人様をサポートいたしますね」
明日の予定が決まり、少しだけ足取りが軽くなる。
不穏な真実を知ってしまった後だからこそ、彼らにとっては何気ない日常のひとときが、何よりも守るべき宝物のように感じられていた。
静まり返った夜の研究室。窓から差し込む月光が、床に散らばった古びた魔導書や、怪しく明滅する試験管を青白く照らし出していた。
キャロルは一人、椅子の背にもたれかかり、天井を見つめてポツリと呟いた。
「……四極星、か」
その瞳には、昼間の飄々とした態度とは裏腹な、冷徹で鋭い色が宿っている。
(今のままじゃあ、あの子たちでは歯が立たないな……)
心の中で、愛弟子たちの顔を思い浮かべる。彼らの成長は目覚ましいが、世界そのものを書き換えようとする「化け物」たちの理不尽なまでの暴力の前では、まだあまりにも脆い。
(レオンの力に、魔族側が完全に気づいた。せっかく、この僕が密かに保護してきたっていうのにさ……)
5年前のあの日。フォルネウスの実験からあの子を奪い去り、運命の濁流から隠し通してきた。だが、その隠れ家も、もう安全ではない。
キャロルの唇が、ふっと吊り上がった。それは聖女のような慈愛ではなく、深淵を覗く魔女のような、不敵で、どこか楽しげな笑みだった。
「まぁ、面白そうだね。……そろそろ、あの魔族たちとの長い因縁にも、けりをつけなくちゃあね」
キャロルが指先を鳴らすと、室内のロウソクが一斉に青い
炎を灯した。
彼女がめくった魔導書のページには、何百年前から変わらぬ筆致で、世界の「理」を覆すような禁断の術式が克明に描かれていた。
「さぁ、レオン。君が『鍵』になるのか、それとも『答え』になるのか。僕に見せておくれよ」
闇夜に響く彼女の独り言は、誰に届くこともなく、夜の静寂へと溶けていった。




