第72話 遺志
王都に活気が戻り、市場の喧騒や子供たちの笑い声が日常に溶け込み始めた頃。学校の放課後、校門の前に腕を組んで立つジルヴァの姿があった。その表情はいつになく険しく、瞳の奥には拭いきれない執念が宿っている。
「……オメェら、来たか。少し付き合ってもらうぜ」
レオンが「何かあったのか」と短く問うと、ジルヴァは低く押し殺した声で答えた。
「ガルドスの奴が使ってた工房だ。軍の調査は一通り終わったが……あいつが消え際、俺に『利用された』と言い残したのが引っかかってな。騎士団の連中が見落とした痕跡が、何かあるかもしれねぇ」
一行はジルヴァに連れられ、王都郊外にある重厚な石造りの工房へと向かった。かつては南部隊長ガルドス・ブロンズゲートの拠点であり、数々の魔道具や武器が整備されていた場所だ。
重い扉を開くと、埃の舞う冷たい空気が流れ出した。棚には巨大なハンマーや整備用の工具が整然と並んでいるが、主を失った空間はどこか虚ろで、死んだような静けさに包まれている。
「……ここが、ガルドスさんの工房」
エレナが胸元のネックレスを握りしめ、痛ましげに周囲を見渡す。
「騎士団の調査では、特に怪しい術式は感知されなかったらしい。だが……」
ジルヴァが工房の奥、一段高くなっている作業台へと歩み寄る。そこには、ガルドスが最期まで調整していたと思われる未完成の魔道具が置かれていた。
「レオン、お前のその左手なら、何か『視える』んじゃねぇか? 普通の術師じゃ気づかねぇ、薄汚い術式の残りカスみたいなもんがよ……」
ジルヴァの視線を受け、レオンは一歩前に出た。白手袋を脱ぎ、剥き出しになった左手を静かに作業台へとかざす。
「……やってみる」
レオンが精神を集中させると、左手の刻印が微かに拍動を始めた。周囲の魔力が《虚無》に吸い寄せられ、空気の色が変わっていく。
すると、何もないはずの作業台の床面に、どろりとした黒い魔力の澱みが、まるで影のように浮かび上がった。
「これは……」
クラリスが息を呑む。それは通常の術式構成ではありえない、どす黒い「粘着質な魔力」の痕跡だった。
「やっぱりか……。フォルネウスの野郎、ガルドスを操るための『苗床』を、こんな公の場所にまで植え付けてやがったのか」
ジルヴァが怒りに拳を震わせる。その時、レオンの左手がさらなる異変を察知した。壁の奥、隠し戸のような隙間から、微かな「音」にも似た術式の振動が漏れ出している。
「……あそこだ」
レオンが指し示した先には事件の真相に繋がる「何か」が隠されているようだった。
レオンが作業台の引き出しの違和感に気づき、底を強く押すと、カチリと乾いた音がして二重底が跳ね上がった。
「ルシフェリア、頼む」
「承知いたしました」
ルシフェリアは懐から細い針を取り出すと、迷いのない手つきで鍵穴へと差し込む。数秒の微かな手応えの後、カチリと音が響いて鍵が開いた。
中から現れたのは、年季の入った一冊の分厚い手帳だった。
「……これは、ガルドスの日記だ。真面目なあいつが、柄にもなく毎日欠かさず付けてたやつだぜ」
ジルヴァが大きな手で、壊れ物を扱うようにそれを手に取る。指先がわずかに震えていた。
「昔、中身を覗こうとしたら本気で怒られてな。一回も中身は見せてもらったことはなかったんだが……」
「見てみよう。あいつの異変がどこから始まったのか、知る必要がある」
レオンの言葉に促され、ジルヴァがゆっくりとページを捲った。
そこには、部下たちの成長を喜ぶ言葉、新しい防衛術式の考案、そして「いつか平和になったら、ジルヴァと酒を酌み交わしたい」という、ガルドスの誠実で温かな人柄が滲み出るような言葉が並んでいた。
「……本当に、真っ直ぐな人だったのね、ガルドスさんって」
クラリスが日記を覗き込み、悲しげに呟く。
しかし、その穏やかな文章は、ある日を境にぷっつりと途絶えていた。
「……3年前。日記はここで止まってる。日付は、あいつが南部の視察に向かった日からだ」
ジルヴァの顔から血の気が引いていく。
最後のページの余白には、それまでの丁寧な筆致とは明らかに異なる、力なく歪んだ文字で一言だけ書き残されていた。
『
「3年前で止まってる……。そこで、あいつは
ジルヴァが日記を握りしめ、言葉を詰まらせた。この3年間、自分たちが接していた「ガルドス」は、すでに内側から食い破られ、幻影に挿げ替えられていた空っぽの器だったのだ。
「3年……。奴は3年もの間、俺たちのすぐ傍で笑いながら、世界を壊す準備をしていたっていうのか……ッ!」
ジルヴァの激昂が、誰もいない工房に虚しく響いた。
レオンが左手で日記に触れた瞬間、重厚だったはずの表紙が、まるで何千年も経過したかのように一瞬で色褪せた。紙面は形を失い、指の間からボロボロと土に変わり、さらさらと床へ崩れ落ちていく。
「なっ……! ガルドスの日記がッ!?」
ジルヴァが焦って手を伸ばすが、土となった日記は意思を持つかのようにふわりと舞い上がった。工房の中に充満した魔力が、その土の粒子を繋ぎ合わせ、空中に不気味に発光する文字を形作っていく。
「おい、見ろ。アイツ……死んだ後に発動するように、こんな細工を仕込んでたのかよ!」
ジルヴァの驚愕の声が響く中、浮かび上がったのは、ガルドスが最期の理性を振り絞って刻んだ、魂の警告だった。
『魔族は世界を書き換えるつもりだ』
その文字は、警告というよりも「確定した未来」を告げる断罪のようだった。
文字は数秒間、強く発光した後、支えていた魔力が尽きたかのように静かに霧散し、ただの土塊となって床に転がった。
「魔族は、世界を書き換える……」
レオンはその言葉を反芻し、自らの左手を見つめた。
キャロルは以前、レオンの本当の力について「書き換え」だと言っていた。そして今、フォルネウスら四極星もまた、同じ目的で動いている。
「世界を……書き換える? そんなこと、神様でもないのに出来るわけないじゃない!」
クラリスが震える声で否定するが、レオンの表情は晴れない。
「……いや、出来るのかもしれない。この世界の全てが『術式』で成り立っているなら、その根源となる術式を奪い、上書きしてしまえば……歴史も、理も、人の記憶さえも、奴らの望むままに作り変えられる」
「それが、フォルネウスの言う『面白いほう』の正体……」
ルシフェリアがレオンの側に寄り、警戒を強める。
「ガルドスは、自分が消される直前にその一端を見たんだろうな。あいつが命がけで遺したこの言葉……ただの脅しじゃねぇ」
ジルヴァが土になった日記の残骸を凝視し、奥歯を噛み締めた。
「レオン、お前のその左手……。魔族が世界を書き換えるための『筆』にするつもりなら、絶対に奴らの手には渡せねぇぞ」
王都の平穏は戻った。しかし、空中に消えた文字の残像は、レオンたちの心に消えない暗雲を落としていた。
四極星の目的が「破壊」ではなく「改変」であるならば、この戦いは、単なる命の奪い合い以上の意味を持ち始めていた。




