第55話 感情
朝の光が差し込む寮の部屋。ルシフェリアが微かにまつ毛を揺らし、ゆっくりと瞳を開けた。
視界がはっきりした瞬間、彼女の手に伝わっていたのは、温かくて力強いレオンの掌の感触だった。
「……起きたか」
レオンの低い、けれど安堵の混じった声。ルシフェリアは一瞬驚いたように目を見開き、すぐに申し訳なさそうに顔を伏せた。
「……っ、ご主人様……。申し訳ありません、私は……」
「無理をするな。まだ傷が塞がったばかりだ」
起き上がろうとして顔を顰めたルシフェリアの肩を、レオンが静かに制する。そこへ、扉を開けてクラリスとエレナが入ってきた。
「ルシフェリア! 起きたのね、良かった……!」
「無理は禁物ですわ。さあ、温かいスープを持ってきましたから」
エレナが丁寧に手渡したトレイには、湯気の立つ滋養たっぷりのスープが置かれている。クラリスも心配そうにベッドの脇に顔を寄せた。
「申し訳ありません……クラリス様、エレナ様。皆様に、これほどのご心配を……」
「いいのよ、そんなこと。まずは元気にならなきゃ」
クラリスが励ますように笑うが、レオンの表情は険しいままだった。彼はルシフェリアの手を握ったまま、まっすぐに彼女の瞳を見つめた。
「……起きたばかりで済まないが、聞かせてくれ。ルシフェリア、お前をあそこまで追い詰めたのは……誰だ」
部屋の空気が、一瞬にして緊張に包まれる。ルシフェリアはスープの器を握りしめ、かつての師の顔を思い出すように、視線を虚空へ彷徨わせた。
「……あの方は、私の『師』だった男です。名前は、骸。私が暗殺者として育てられていた頃の、教育係でした」
ルシフェリアの声が、微かに震える。
「……恐らくガルドスの協力者として現れました。あの方は、私の動きを全てを知り尽くしています」
「……骸、か」
レオンの口から、氷のように冷たい呟きが漏れた。
部屋の中に、温かいスープの湯気とは対照的な、冷たく重い沈黙が流れた。
「そういえば、ルシフェリアの昔のことって、詳しく聞いたことなかったわね……」
クラリスが少しだけ申し訳なさそうに、けれど真剣な眼差しで呟く。エレナも思い返すように、静かに言葉を添えた。
「確か、最初はカスパールさんを狙った暗殺者……とおっしゃっていましたわね。わたくしたちと出会う前の、貴方のことは……」
ルシフェリアは、握りしめたスープの器に映る自分の顔を見つめ、遠い記憶を手繰り寄せるように口を開いた。
「……はい。私は物心ついた時には、すでに暗殺者としての訓練を受けていました。親の顔も、自分の本当の名前も知りません。ただ、殺すための道具として……あの日々に放り込まれたのです」
彼女の脳裏に、陽の光すら届かない地下施設と、骸の冷徹な声が蘇る。
「あの男……骸に、文字通り叩き込まれました。私はその時、『銀』というコードネームで呼ばれ、ただ標的を屠るためだけに生きていました。……地獄のような日々でした。痛みも、恐怖も、そして喜びも……感情を持つことは生存の邪魔になると教え込まれ、私は心を殺して生きていたのです」
ルシフェリアの視線が、自分の手を握っているレオンの掌へと移る。
「そして、ご主人様の命を狙うという任務を受け、失敗しました。……その時、ご主人様に救われ、名前を頂き……私は初めて、自分が『人間』であることを知ったのです」
「……ルシフェリア」
レオンは何も言わず、ただ繋いだ手に少しだけ力を込めた。
しんとした空気の中、クラリスがじとーっとした視線をレオンに向けた。
「……ねぇ、ずっーと気になってたから聞くけどさ。ぶっちゃけ、メイドってレオンの趣味なの?」
「なっ……! 違う、そんなわけないだろう」
レオンが思わず動揺して否定する横で、ルシフェリアが真面目な顔で補足した。
「いえ、これはご主人様を支えるためにどう振る舞えばいいか悩んでいた際、キャロル様から『これが最も効率的な献身の形だよ』と教えていただいたのです」
「……あいつ、余計なことしか教えないな。あの魔女の悪い癖だ」
レオンは片手で顔を覆い、溜息をついた。かつての暗殺者をメイドに仕立て上げた犯人があのS級魔術師だと知り、一同は妙に納得したような、呆れたような表情を浮かべる。
「まぁまぁ、お話はそれくらいにして。スープが冷めてしまいますわ、ルシフェリアさん。さあ、飲んでくださいな」
エレナが優雅に微笑み、スープの器を促した。ルシフェリアは「ありがとうございます、いただきます」と丁寧に一礼し、一口口に運んだ。
「…………っ!?」
次の瞬間、ルシフェリアの顔からスーッと血の気が引き、みるみるうちに青ざめていく。
「ど、どうしたのルシフェリア!? 美味しすぎて感動した?」
「……これ、は何、ですか……」
震える声で問いかけるルシフェリアに、エレナは不思議そうに首を傾げた。
「あら、何かおかしいかしら? 滋養に良いとされるハーブや数種類の薬草を、一番効能が出るまでじっくりと煮詰めたのですけれど。お口に合いませんでした?」
「……。エレナ様、一つだけはっきり申し上げますわ」
ルシフェリアは震える手で器を置き、真っ直ぐにエレナを見つめた。
「エレナ様には、今後一切、台所を任せるわけにはいきません。……これは、私でも意識を失いかねない……ある種兵器に近い味がいたします」
「ええっ!? そんなはずは……あ、わたくし味見を忘れていましたわ」
天然お嬢様のエレナに、クラリスが「あちゃー」と額を押さえ、レオンはそっと視線を逸らした。どうやら、完璧に見えるエレナにも意外な「弱点」があったようだ。
夕食時になる頃には、エレナ特製の「特効薬」……もとい、滋養強壮スープの効果(あるいはその衝撃)か、ルシフェリアは驚異的な回復力で立ち上がれるまでになっていた。
「……おかげさまで、傷も癒えました。皆様、本当にありがとうございます」
ルシフェリアが深々と一礼する。その顔にはまだ少し疲れが見えるものの、瞳には確かな力が宿っていた。
レオンは彼女の隣に立ち、窓から差し込む夕焼けの赤い光を背に受けながら、静かに、けれど逃げ場のないほど真剣な声で告げた。
「……ルシフェリア。今度は、絶対に俺から離れるなよ」
そのあまりにもストレートな言葉に、室内が一瞬しんと静まり返る。
「……あーら熱いわねー! ご馳走様! 」
クラリスがニヤニヤしながら、大袈裟に自分の肩を抱いて茶化す。
「ふふ、あらあら。カスパールさんも、素直になればあんなに素敵なことが言えますのね。見直しましたわ」
エレナも口元に手を添えて、楽しげに目を細めている。
「……っ、うるさいぞ、お前ら! ……俺はただ、二度も危ない目に遭わせたくないと言っているだけだ!」
レオンが耳まで赤くして怒鳴るが、その隣でルシフェリアは、愛おしそうにレオンを見つめ直し、凛とした声で答えた。
「はい、ご主人様。……もう、二度と離れません。死が二人を分かつ時まで……いえ、死してなお、私は貴方の影としてお側に」
「……だから、重いんだよ。お前は」
レオンは呆れたように視線を逸らしたが、その口元はわずかに緩んでいた。




