第54話 風の中
ジルヴァは二対の短剣を逆手に持ち替え、身を切るような鋭い風の魔力を立ち昇らせた。その瞳は、獲物を追い詰める狼のように低く、冷たく据わっている。
「……あァ? 騎士団の名を汚し、俺の術式を紛い物の魔族に転写しやがって。俺は今、すこぶる腹が立ってんだ。手加減なんて、これっぽっちも出来ねぇぞ」
一触即発。ジルヴァの放つ殺気に、流石の骸も微かに眉を動かした。目の前の男が、これまでの「学生」とは次元の違う、戦場を潜り抜けてきた本物の「隊長格」であることを瞬時に悟る。
「……チッ、分が悪いか。引くぞ」
骸が短く命じると、背後の部下たちと共に、漆黒の煙が巻くようにその姿を掻き消した。気配すら残さない、鮮やかな撤退。
「おい! 待てコラ! 逃げんじゃねぇ!」
ジルヴァの叫びが夜の路地に虚しく響く。彼は逃げた方向を睨みつけると、乱暴に頭を掻き回した。
「クソが……! せっかく暴れる準備ができてたってのによぉ! 煮え切らねぇ野郎らだぜ」
苛立ちを吐き捨てると、ジルヴァは足元に倒れているルシフェリアへと視線を落とした。その瞬間、戦鬼のような表情が、どこか不器用な「年長者」のものへと変わる。
「……大丈夫かよ、嬢ちゃん。酷ぇ傷じゃねぇか」
「……っ。だい、じょうぶです……。すぐに、ご主人様の元へ……」
ルシフェリアは震える腕で床を押し、無理に立ち上がろうとする。だが、深い傷を負った足は無情にも崩れ、その身体が再び石畳へ沈もうとした瞬間――。
「おっと。無理すんなっての」
ジルヴァの逞しい腕が、倒れかかる彼女の身体をしっかりと受け止めた。そのまま、淀みのない動作で彼女を軽々と抱え上げる。いわゆる「お姫様抱っこ」の形になった。
「っ!? ……も、申し訳ありません……わ、私のような者が、隊長様にこのような……」
銀髪を乱し、顔を赤らめて固まるルシフェリア。彼女にとって、レオン以外にここまで距離を詰められるのは初めての経験だった。
「気にするな。怪我人を放っておいて、旦那に『見捨てました』なんて報告できるかよ。……お前さんの主のところまで運んでやる。」
ジルヴァは不敵に笑うと、ルシフェリアをしっかりと抱え、歩き出す。
その頃、店に入っていた3人はルシフェリアを待っていた。
「……ルシフェリア、遅いわね。忘れ物を取りに行っただけにしては、時間がかかりすぎじゃないかしら?」
クラリスが窓の外を眺めながら、不安げにカップを置く。エレナも、いつになく落ち着かない様子で入り口を何度も振り返っていた。
「ええ……。何か、嫌な予感がいたしますわ。ルシフェリアさんのような方が、これほどお待たせするなんて」
「…………っ!」
二人の言葉が耳に入った瞬間、レオンの脳裏に、別れ際のルシフェリアの瞳がフラッシュバックした。あの静かな、けれど何かを覚悟したような眼差し。
「……クソッ! 俺としたことが……!」
レオンは椅子を蹴るようにして立ち上がると、返事も待たずに店を飛び出した。
「ちょっと、レオン!? どこに行くのよ!」
「カスパールさん!」
背後から追いかけてくる二人の声も耳に届かない。レオンは全速力で、先ほど来た道を引き返した。心臓が早鐘を打つ。もし、あの時感じた違和感が、彼女を狙う刺客の予兆だったとしたら――。
「ルシフェリア!!」
暗い路地を抜け、大通りに出ようとしたその時。
風を切り裂いて、銀髪の少女を腕に抱いた一人の男が、建物の影から姿を現した。
「おっと。ちょうど主人の出迎えだぜ、嬢ちゃん」
ジルヴァがニヤリと笑い、足を止める。
「ルシフェリア……!」
レオンが叫びながら駆け寄ると、ジルヴァは無造作に、けれど丁寧な手つきで、ボロボロになったルシフェリアをレオンの腕の中へと預けた。
「……も、申し訳ありません、ご主人様……。お見苦しいところを……」
レオンの腕の中で、ルシフェリアは血の気の引いた顔で力なく微笑む。そのメイド服は切り裂かれ、痛々しい傷跡が全身に刻まれていた。
「……喋るな。もう大丈夫だ」
レオンは彼女を強く抱き締め、その体温を確かめるように息を吐いた。そこでようやく、目の前に立つ男の正体に気づき、鋭い視線を向ける。
「……ジルヴァ!? なぜ、あんたがここに……!」
「ったく、世話の焼けるガキどもだぜ。偶然通りかかってな。お前さんのメイドさんの『お掃除』を手伝ってやったんだよ」
ジルヴァは肩をすくめ、追いついてきたクラリスとエレナを交互に見た。
「この嬢ちゃんの治療、急いでやってやりな。今ならまだ間に合うぜ」
学生寮のレオンの部屋。窓の外では王都の夜が静まり返っているが、室内には魔法の残光と、安堵の混じった重い空気が漂っていた。
ベッドに横たわるルシフェリアの顔色は、先ほどまでの蒼白さが嘘のように落ち着いている。エレナが額の汗を拭い、聖なる魔力を纏わせたペンダントをゆっくりと下ろした。
「……血は止めましたわ。深い傷もありましたが、幸い命に別状はありません。もう大丈夫ですわ、レオンさん」
「……ああ、恩に着る、エレナ」
レオンは短く応えると、ベッドの脇に腰を下ろし、そっとルシフェリアの細い手を握りしめた。冷たかった彼女の指先に、少しずつ確かな体温が戻ってくるのを感じて、胸の奥の疼きがわずかに和らぐ。
レオンは視線を上げ、壁に背を預けていたジルヴァを射抜いた。
「……ジルヴァ。改めて聞くが、なぜあんたがここにいる。西部にいるはずじゃなかったのか」
「フェリスから聞いたんだよ。ガルドスの野郎が王都で派手にやらかそうとしてるってな。……俺の『風』を勝手に弄くり回した落とし前、あいつの身体を直接切り裂いてやるために来たんだよ」
ジルヴァは懐から短剣を取り出し、手慰みに回しながら低く笑った。その瞳には、かつての恩師ヴォルカニカスから託された決意が宿っている。
「……ルシフェリアは、誰に襲われていたんだ。こんなにやられるなんて」
「俺も詳しくは分からねぇ。だが、あの野郎……ガルドスと繋がってるのは間違いねぇだろう。……ま、詳しい話は、その嬢ちゃんが起きてから直接聞くんだな」
ジルヴァはそれだけ言うと、用は済んだとばかりにドアへと歩き出した。
「おい、ジルヴァ」
レオンの声に、ジルヴァが足を止める。
「……すまなかった。助かったよ」
ぶっきらぼうな、けれど精一杯の謝辞。ジルヴァは一瞬だけ足を止め、肩越しに不敵な笑みを浮かべた。
「カッカッカ! 素直じゃねぇなぁ、坊主。……まぁ俺は偶然通りかかっただけだ」
ひらひらと手を振りながら、ジルヴァは部屋を出ていった。その足取りには、嵐の前の静けさを楽しむような余裕があった。
再び静まり返った室内。レオンは、眠るルシフェリアの穏やかな寝顔をじっと見つめていた。
(……すまない、ルシフェリア。俺がもっと早く気づいていれば……)
握りしめた手に力を込める。彼女が守ろうとしたもの、そして彼女を傷つけた者たち。レオンの心の中で、ガルドスへの、そして背後に潜む「何か」への静かな、けれど苛烈な怒りが、虚無の炎となって燃え上がり始めていた。




