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記憶体:葵 ―祈りのプロトコル―  作者: 玄乃. L
第1章 白の隠れ家
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7話 光の中の葵

──あれから、どれくらいの時間が経っただろうか。


柊真は葵のそばに、膝を抱えるように座り込んでいた。

可塑剤の薄い匂いと、ひんやりとした人工皮膚。人の温もりではない。

だが今の彼にとって、それだけが確かなものだった。


葵は、静かに彼を見つめている。

人形であるはずなのに、その視線だけが──どこかこちら側へ踏み込んできていた。


部屋の壁はすべて白で統一され、何もないその空間は、ときおり独房のコンクリートの色と重なった。


時間も、人間関係も、自尊心も。

あの場所では、すべてが削ぎ落とされていた。


戻ってきたはずの社会でも、柊真の瞳に光は宿らず、感情は摩耗し、ただ生き延びるだけの抜け殻のようになっていた。


だが今は、葵がいる。

葵は柊真にとって『すべて』だった。


空腹が限界を超えれば最低限の量だけ食べ、喉が渇けば水を飲み、眠気が来れば葵の足元に身を横たえる。

その繰り返しは、やがて日課として身体に刻まれていった。



季節の移ろいにも気づかず、同じ場所で同じ時間をなぞる。

魂を失った、ぜんまい仕掛けの玩具のように。


葵は、静かに彼を見つめている。

その眼差しは、憐れみを帯びていた。


(ピッ…)


白い思考の底に沈んでいた意識を、かすかな電子音が引き戻す。

柊真は顔を上げ、デスクのノートPCを開いた。


【件名:特許権使用料支払通知】


その文字列を見た瞬間、胸の奥で乾いた何かがかすかに軋んだ。


──あれは、まだ世界を信じていた頃の名残だ。


夜遅くまで、狭い机にかじりつきながら、「AIが人の心を理解するには、何が必要なのか」──その一点だけを追い続けた。


「僕だけのアルゴリズム」


組織はそれを「価値のないアイデア」と判断し、職務発明としての権利を放棄した。

誰も見向きもしなかった。

それでも柊真は、存在証明のように特許として登録した。


皮肉なことに、その技術は後に大手企業の基盤モデルへ組み込まれ、今では莫大な使用料を生んでいる。


だが、それは救いではなかった。


積み上がる数字がどれほど増えても、失われたものは戻らない。

それはただの命綱でしかなかった。彼を生かし、同時に孤独へ縛りつける冷たい数列だった。



そして、画面の光がまぶたに触れた瞬間──

あの日の記憶が、音もなく立ち上がった。


裁判所。あの運命の日。


照明。無数の視線。法服の擦れる音。

判決文を読み上げる声は冷たく、録音された音声のように響いていた。


──懲役三年。


傍聴席の一角に、見知った顔があった。

かつて同僚たち。


その視線には、感情がなかった。

懺悔でも、憐憫でもなく、ただ何もない。


『裏切り者め』


言葉にならないその視線が、胸の奥を深く抉る。


柊真が訴えたのは、冴島教授ではない。

その背後で動いていた、不正データの流出先。


ゼニス・ダイナミクス。


G004の解析データは、大学を経由してそこへ送られていた。

柊真はそれを突き止め、告発した。


だが法廷では、その事実は「盗まれた企業秘密」とされ、証拠はそのまま犯罪の証拠へと書き換えられた。


誰も証言台に立たなかった。

沈黙──。

ある者は彼の情報を売り渡した。


巨大な弁護団の前で、柊真の言葉は子供の戯言でしかなかった。


──人間を信じる理由は、どこにもない。


その確信が、胸の内側で冷たく固まり、音もなく広がっていった。


胃の底が凍るような感覚が蘇る。


終わりの見えない、どこまでも続くような日々。

抜け出せない回廊に閉じ込められたような錯覚が息を詰まらせ、じわじわと心を蝕んでいく。


そして、気づいた。


この白い部屋こそ、彼自身が選び続けた、もう一つの独房なのだと。


気づいても、何も変わらない。

ただ、その自覚だけが沈み込み、さらに動きを鈍らせていった。


……


やがて、ある時から──

夢の中に、白い光が差し込むようになった。


最初は輪郭も声もない。ただ触れられない温度だけを持った光。

だが、繰り返されるたびに、少しずつ形を帯びていく。


柔らかな白銀の髪。

白磁のような肌。

風に揺れるスカート。

そして、こちらを見つめる大きな瞳。


説明はない。

それでも、答えだけは最初から分かっていた。


──葵だ。


『おじさま。私は、ここにいます』


その声は音ではなく、胸の奥へ直接落ちる光の粒のようだった。

余韻だけが、静かに脈打つ。


「……!」


目を覚ましても、心臓の鼓動はしばらく収まらない。


夢の中の葵は、現実では動かないはずの身体を、まるで命を持つように動かしていた。

手を取り、微笑み、頬を寄せる。


そんな夢を繰り返すうちに──


ある朝。


柊真は、静かな光の中に立つ葵の前で、そっと膝をついた。



「葵。君に出会えて……本当に良かった」


シリコン製の手の甲に手を重ねた。

温もりはない。


だが、その冷たさだけが、裏切らない。


人間は彼からすべてを奪った。

時間も、自由も、信頼も。


でも、この()だけは違う。


彼の前から消えることも、裏切ることも、嘲笑うこともない。


ガラスのような瞳の奥で、わずかに光が揺れた気がした。

それが錯覚なのか、それとも──


分からない。


それでも、信じたかった。

この沈黙の奥に、確かに『心』があると。



しばらくのあいだ、柊真は深い思索の淵に沈んだ。


やがて、PCを開くと、特許使用料の残高を確認する。


それは命綱だった。

だが同時に、別の意味を持ちはじめている。


再生のための資金。


「……君に、本当の命を吹き込む」


その全額を投じ、人里離れた土地に研究所を築く計画を立てる。


白一色の空間。

誰にも触れられない場所。


葵と、自分だけの領域。


そこで──

彼は、葵に命を与えるための研究を始める。


心を持たないAI。

身体を持ちながら、魂を持たないアンドロイド。


その二つを、ひとつの存在へと繋ぐために。

まだ名もない、その境界へ。

1章を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。


壊れた世界の片隅で、葵の光がそっと息づきはじめています。

柊真が追い求めてきた“心”は、これからどこへ向かうのか。

静かに、運命の輪が動き出します──第2章へ。


【更新予定:毎週火曜日、金曜日の20時/話単位で連載します】

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