8話 白の要塞
研究所は、雪を頂く連峰の裾野にひっそりと佇んでいた。
白を基調としたミニマルなデザインは、彼の孤独と、潔癖なまでの自己防衛心の結晶であり、俗世から自らを切り離すための要塞でもあった。
建物は地上二階、地下一階の鉄筋コンクリート構造だった。
各階へは、中央の円筒形ホールとエレベータからアクセスする。
中央のホールには、なだらかな螺旋階段が巡り、天窓から柔らかな光が差し込む。
ホールの壁は小さな窓に切り取られ、外の風景が絵画のように飾られていた。
一階は談話室と複数の個室、二階は柊真の自室と作業スペース。
そして──ラボのガラスの向こう。
『リアルドール 葵』が、静かに座っている。
無垢な表情。
柔らかな照明に包まれたその姿は、装飾ではなく、この場所の中心そのものだった。
柊真は、街にいた。
研究所から最も近いスーパーで、保存の利く食料をまとめて車に積み込む。
街外れの配送センターで荷物を受け取ると、そのまま次の場所へ向かった。
「あとは、このコンビニか……」
駐車場に車を停め、荷物を受け取るための手続きをする。
「佐藤さん……こちらのお荷物ですね」
気さくなコンビニ店員が、カウンター越しに箱を差し出す。
「確か先週も……」
かけようとした言葉を遮るように、柊真は、
「えぇ、ありがとうございます」
それだけを返し、荷物を受け取って店を出た。
箱を積み込み、足早に車を出す。
「……そろそろ、ほかを使うか」
この日受け取ったのは、車で運べる程度の部品や試験用パーツ。
市内の配送センターやコンビニ受け取りを使い分け、経路を分散する。情報の痕跡を残さないための、小さな積み重ね。
研究を続けるための重要な計算の一部だった。
大型の工作機やサーバーは業者に任せるしかない。
だがその場合も、搬入経路と作業範囲は厳格に制限し、内部構造には触れさせない。
「今日は、こんなところにしておこう……」
早朝に研究所を出てから、太陽は既に天頂を過ぎようとしていた。
柊真の車は、大きな河川に沿う県道を走っていた。
研究所の管理ゲートまでは、車でおよそ二十分。
やがて道を逸れ、山道の狭いトンネルを抜ける。
舗装の終わりと同時に、森の匂いが車内へと流れ込んできた。ブナの葉は風に揺れ、春は淡い緑、秋は黄金色に染まる。
今日はそのどちらでもない、深い緑だった。
ハンドルを切るたび、車窓に銀色の送電線が現れては消える。
やがて、砂防ダムの灰色の壁が見え、続いて取水施設の赤い屋根の建物が姿を現す。
この道を通るたび、街と山の境界線を越える感覚があった。
柊真は、ゲート前に車を停めると、監視カメラの状態をチェックする。
頑丈な錠前を開けようと、鍵に手を伸ばそうとした、そのとき。
「おや、あんた。あの白い建物の方かい?」
山の静けさの中、その声はやけに近く聞こえた。
振り返ると、温厚そうな老人が立っていた。
ゲートからさらに山を十分ほど登った先にある古い家の主だ。
「あの白い建物……中で何をしてるんだい?」
唐突な問いに、柊真は口元だけで笑った。
「倉庫ですよ。ちょっとした機械いじりを」
老人は「ほう」と短く返し、山の上を顎で指す。
「この辺は物好きが来る場所じゃねえ。気をつけな」
好奇心と警戒が混じった声だった。
柊真は軽く会釈し、ゲートを開けた。
管理ゲートから研究所までは、車で五分ほど。
未舗装の道を進むあいだ、森の切れ間から白い外壁がわずかに覗く。
屋根には、パラボラアンテナ。スペースTEN社の衛星通信。
森の中で外界とつながるための、数少ない手段だった。
ハンドルを握りながら、建設当時のことを思い出す。
「倉庫の整備ですか?」と尋ねる作業員の怪訝そうな顔。
研究所の建設は分割請負方式をとった。
作業範囲を細かく区切り、誰も全貌を知ることなく進められた。
都市部から雇った短期契約の作業員は、施工が終わればすぐに解散させ、無用な憶測が広がらないよう気を配った。
役所の記録には「山間部倉庫群の整備」とだけ残り、実態を知る者は一人もいなかった。
(──誰にも『全体』を見せない)
それが、この場所の鉄則だった。
森を抜けると、巨大な白い石塊が姿を現す。
幾何学的な折れを持つ、高さ三メートルほどのコンクリート製の外壁は、死角を排し、外からの視線を完全に拒んでいた。
その灰白色の質感は、自然の色彩の中でひときわ異質で、意図的に孤立させられた人工物であることを主張していた。
外壁には、車両用の自動開閉式のシャッターと人間用の通用扉が設けられ、複数台の監視カメラが訪れる者を余さず記録していた。
鈍い駆動音とともにシャッターが開き、柊真はコンクリート製の外壁の中へと車を進める。
ハンドルから手を離すと、「ふーっ」という短い息が自然と漏れた。
後方ではシャッターが閉まりきる音──
その瞬間、森のざわめきも鳥の声も、一気に遠のく。
まるで外界の音が一枚の壁に阻まれ、ここだけが別の空気に包まれているかのようだった。




