6話 あの夜の選択
冴島研究室へ出向して一年が経とうとしていた頃、柊真は研究の節目を迎えていた。
プロジェクトの第一段階は一応「完了」とされ、翌日の中間報告を前に、研究室では打ち上げが催されていた。
だが柊真の胸には、達成感はほとんどなかった。
提出した研究テーマは、冴島によって方向をわずかにずらされ、現場で集めた患者の声も、改善データも、報告書からは静かに削ぎ落とされていた。
表向きだけ整えられた進捗と、本来の研究とのあいだにある空白が、胸の奥で鈍く疼いている。
若い学生たちの賑やかな声が居酒屋に満ち、その喧噪だけがどこか遠くで鳴っているように聞こえた。
──ふと、詩織の姿が見えないことに気づく。
彼女は、カウンター席で一人、淡々とグラスを傾けていた。
照明は弱く、同じ空間にいながら、そこだけ別の場所のように沈んでいた。
柊真は、詩織のいつもとは違う様子に気づき、そっと声をかけた。
「……大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫です。少し疲れただけです」
微笑みは柔らかかった。
だが、その奥には触れられない「何か」があった。
一瞬、目を伏せる仕草。
その細い肩に宿る、言葉にならない沈黙。
──ただ、疲れているのだろう。
そう思う以上のことは、分からなかった。
ざわめきの中で、詩織の横顔だけがどこか遠くにあるように見えた。
「……無理はしないでください」
その言葉に、詩織は指先でグラスの縁をなぞりながら、小さく応じた。
「……先生も、ですよ」
かすかに声が揺れる。
それでも、確かに相手を気遣っていた。
最初は静かに飲んでいた。
だが話題が「理想のAI」に移ると、詩織の表情がほどけていく。
「……『心』は不要だ、って言う人もいますけど、私はそうは思いません」
ワイングラスを回しながら、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「人が『誰かに聞いてもらえる』って思えること。
それって、とても大事なことだと思うんです。
福祉や医療の現場では、なおさら」
声は酔って少し掠れていたが、芯は揺らがなかった。
柊真は、その熱を、静かに受け止めていた。
「……あなたの考え、好きですよ。
優しくて、まっすぐで」
「だ、だめですよ……急にそんな……」
頬を染め、そのままグラスのワインを飲み干した。
気づけば、ボトルの半分以上を一人で空けていた。
「詩織さん、もうやめておきましょう。飲みすぎです」
「だいじょーぶです……私……お酒には……強いんです……」
笑みが揺れ、言葉の切れ目にわずかな遅れがあった。
いつもの冷静さとは少し違う、柔らかい崩れ方。
研究室では決して見せない、年相応の可愛らしさがふっと覗いた。
「……強いんです、から」
語尾が落ちきらず、漂うように伸びた。
その声は、どこか無理を押し隠しているようにも聞こえた。
気がつけば、時間は深夜を回っていた。
冴島教授の姿は、いつの間にか消えていた。
学生たちは盛り上がり、そのまま夜の街へと流れていく。
「カラオケ行きましょうよ! 詩織さーん!」
呼ばれた詩織は手を挙げかけて、バランスを崩し、そのまま縁石に腰を落とした。
「ちょ、ちょっと……詩織、大丈夫!?」
女子学生が駆け寄ろうとする。
だが、隣の男子学生がそっと制した。
「……あれは、放っておいたほうがいいよ」
「え?」
「見てれば分かるだろ。あの二人、ちょっと……いい感じだしさ」
女子学生は言葉を飲み込み、視線を逸らした。
詩織は縁石に座り込み、夜風に肩を震わせている。
「……ご迷惑、かけちゃいましたね……」
柊真はしゃがみ込み、そっと詩織の肩に手を添えた。
「大丈夫です。
ただ……無理はしないでください」
詩織は笑おうとしたが、うまく形にならないまま、肩に頭を預けた。
「……先生……あったかい……」
その声が落ちた瞬間、柊真の胸の奥に、鋭い痛みが走った。
もし、そっと腕を回してしまえば──きっと彼女は、拒まないのだろう。
そんな予感が、ふと胸をざわつかせた。
(……だめだ)
理性が、それを押しとどめた。
タクシーを拾おうと手を上げても、どれも通り過ぎていく。
この時間では、もう難しい。
深夜の街は、ふたりを置き去りにしたかのように静かだった。
大学に戻るしかなかった。
「歩けますか?」
「……歩けます……たぶん……」
言葉とは裏腹に、足元はおぼつかない。
柊真は自然と、詩織の肘を支えていた。
大学の構内は深夜の静寂に包まれていた。
街灯の淡いオレンジ色の光が、二人の影を細く並べて伸ばしていた。
その影は、重なりそうで......けれど決して触れ合わず、夜風の中で揺れていた。
しばらく歩いたあと、詩織がぽつりと口を開いた。
「……柊真さんは、冴島教授の研究、どこか『おかしい』と感じませんか?」
その問いには、冷たいものが混じっていた。
「……どういう意味ですか?」
詩織は足を止め、真っ直ぐに見つめた。
「一週間ほど前、深夜まで研究室で作業していたときです。
解析が終わったはずのPCに、『G004』というデータが追加されていました」
柊真は、胸の奥がゆっくり沈むような感覚を覚えた。
「……G004?」
わずかな既視感がよぎる。
詩織は小さく頷いた。
「福祉AIとは違う形式で……内容も分からなくて。
ただ、すごく嫌な感じがしたんです。
見てはいけないものだって……」
その言葉は震えていた。
そして、詩織は迷いながらスマートフォンを取り出した。
「……そのときの画面です。
怖かったけど……撮ってしまいました」
受け取った瞬間、柊真の表情が変わった。
詩織は続ける。
「信じてもらえないかもしれません。でも……普通じゃなかったんです。
ログも、構造も……何かを隠しているみたいで」
「詩織さん……これは……」
=== PT_G004_ethics.log ===
timestamp: 02:14:03.118
exec_time: 0.0312 sec
core_latent[1024]: 2.39e+183, 1.27e+177, 9.34e+175, ...
input_type: bio_signal_synth
GF_SIG: null
status: running
ethics_layer: override_candidate[7]
EVAL_NODE: bypass_flag = TRUE
EVAL_WEIGHT: 0.000491 → 1.000000
HEURISTICS: external_policy_undefined
trace_id: ZNX-04-βAUTH
柊真は、ログから目を離すことができない。
「GF_SIGが……無い? 本当に?」
詩織は強く頷いた。
「倫理基盤のログに署名が空白なんて……見たことありません。
教授の資料にも、こんな形式は一度も……」
柊真は、画面をスクロールしてログの下層を確認した。
override、bypass、external_policy_undefined──
並んだ語句が、意味ではなく「危険性」として意識に引っかかる。
倫理層の上書き。
判断の回避。
規範の未定義。
どれも、通常の研究では触れない領域だった。
そして、視線が止まる。
trace_id: ZNX-04-β
その文字列を見た瞬間、胸の奥がわずかに軋んだ。
「……これは……」
詩織が不安げに覗き込む。
柊真は、視線を落としたまま呟いた。
「外部の識別コードです。大学のものじゃない」
わずかな沈黙。
思考が、ゆっくりと繋がっていく。
企業の内部管理コード。
倫理層への直接アクセス。
署名のない実行ログ。
その断片が、一つの輪郭を結び始める。
「……trace_idの『ZNX』……」
喉が乾く。
(ゼニス・ダイナミクス……?)
その名は、確信というより、記憶の底から浮かび上がった「候補」だった。
だが一度浮かんだ以上、もう無視できない。
柊真は、画面から目を離さずに続けた。
「もしこれがそうだとしたら……大学の研究室で扱っていいものじゃない」
声は低く、わずかに重さを帯びていた。
詩織は息を呑んだ。
「……そんなものが、どうしてここに……」
柊真は答えなかった。
答えられる段階ではなかった。
ただ一つだけ、はっきりしている。
「……これは、外部から持ち込まれたデータです」
その言葉は、推測というより結論に近かった。
(……まさか、G004の内部構造解析を、大学の計算ノードで……?)
胸の奥で、氷の塊が砕けるような感覚が走った。
詩織は、震える手で袖を掴んだ。
「……教授が作ったものじゃ、ないですよね……?」
柊真は小さく首を振った。
「違う……外から持ち込まれたデータだ。
大学の倫理審査も、安全保障チェックも……全部すり抜けてる」
(冴島教授……何をしている?)
その先は、口にしなかった。
詩織の表情に気づき、柊真は静かに言った。
「……ありがとう。
詩織さんが勇気を出して話してくれたおかげで、見落としていたものに気づけました」
その声には、確かな決意があった。
詩織は震えながら尋ねる。
「どうするつもりですか?」
「研究室を去ります。そして、少し調べます」
「そんな……私が知らせなければ……
巻き込むことも……」
詩織の声は、今にも詰まりそうだった。
「違います」
彼女の言葉を静かに遮った。
「知らせてくれなければ、手遅れになっていたかもしれません」
詩織の目に涙が浮かんだ。
「……でも、怖いんです」
その一言に、彼女が背負ってしまった恐怖と孤独のすべてが滲んでいた。
柊真はそっと手を伸ばし、その涙を指先で拭った。
「これ以上、この件には関わらないでください」
詩織は震える声で呟いた。
「……柊真さんが別の誰かを見ていたら……
私は……」
その頬に──
柊真はそっと唇を寄せた。
触れたのは一瞬。
けれど互いに、その温度を忘れられなかった。
「強くなんて、なれません……
でも……止めたくありません」
柊真は、何も答えなかった。
研究棟の中へ入る。
廊下には、LEDの白い光がふたりの影を細く伸ばす。
重なりそうに揺れながら、やがてバラバラに分かれていった。
それが、二人の長い別れの始まりだった。




