表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
記憶体:葵 ―祈りのプロトコル―  作者: 玄乃. L
第1章 白の隠れ家
7/53

6話 あの夜の選択

冴島研究室へ出向して一年が経とうとしていた頃、柊真は研究の節目を迎えていた。


プロジェクトの第一段階は一応「完了」とされ、翌日の中間報告を前に、研究室では打ち上げが催されていた。


だが柊真の胸には、達成感はほとんどなかった。


提出した研究テーマは、冴島によって方向をわずかにずらされ、現場で集めた患者の声も、改善データも、報告書からは静かに削ぎ落とされていた。

表向きだけ整えられた進捗と、本来の研究とのあいだにある空白が、胸の奥で鈍く疼いている。


若い学生たちの賑やかな声が居酒屋に満ち、その喧噪だけがどこか遠くで鳴っているように聞こえた。


──ふと、詩織の姿が見えないことに気づく。


彼女は、カウンター席で一人、淡々とグラスを傾けていた。

照明は弱く、同じ空間にいながら、そこだけ別の場所のように沈んでいた。


柊真は、詩織のいつもとは違う様子に気づき、そっと声をかけた。


「……大丈夫ですか?」


「ええ、大丈夫です。少し疲れただけです」


微笑みは柔らかかった。

だが、その奥には触れられない「何か」があった。


一瞬、目を伏せる仕草。

その細い肩に宿る、言葉にならない沈黙。


──ただ、疲れているのだろう。

そう思う以上のことは、分からなかった。



ざわめきの中で、詩織の横顔だけがどこか遠くにあるように見えた。


「……無理はしないでください」


その言葉に、詩織は指先でグラスの縁をなぞりながら、小さく応じた。


「……先生も、ですよ」


かすかに声が揺れる。

それでも、確かに相手を気遣っていた。


最初は静かに飲んでいた。

だが話題が「理想のAI」に移ると、詩織の表情がほどけていく。


「……『心』は不要だ、って言う人もいますけど、私はそうは思いません」


ワイングラスを回しながら、ゆっくりと言葉を選ぶ。


「人が『誰かに聞いてもらえる』って思えること。

 それって、とても大事なことだと思うんです。

 福祉や医療の現場では、なおさら」


声は酔って少し掠れていたが、芯は揺らがなかった。


柊真は、その熱を、静かに受け止めていた。


「……あなたの考え、好きですよ。

 優しくて、まっすぐで」


「だ、だめですよ……急にそんな……」


頬を染め、そのままグラスのワインを飲み干した。

気づけば、ボトルの半分以上を一人で空けていた。


「詩織さん、もうやめておきましょう。飲みすぎです」


「だいじょーぶです……私……お酒には……強いんです……」


笑みが揺れ、言葉の切れ目にわずかな遅れがあった。

いつもの冷静さとは少し違う、柔らかい崩れ方。


研究室では決して見せない、年相応の可愛らしさがふっと覗いた。


「……強いんです、から」


語尾が落ちきらず、漂うように伸びた。

その声は、どこか無理を押し隠しているようにも聞こえた。



気がつけば、時間は深夜を回っていた。

冴島教授の姿は、いつの間にか消えていた。


学生たちは盛り上がり、そのまま夜の街へと流れていく。


「カラオケ行きましょうよ! 詩織さーん!」


呼ばれた詩織は手を挙げかけて、バランスを崩し、そのまま縁石に腰を落とした。


「ちょ、ちょっと……詩織、大丈夫!?」


女子学生が駆け寄ろうとする。

だが、隣の男子学生がそっと制した。


「……あれは、放っておいたほうがいいよ」

「え?」

「見てれば分かるだろ。あの二人、ちょっと……いい感じだしさ」


女子学生は言葉を飲み込み、視線を逸らした。


詩織は縁石に座り込み、夜風に肩を震わせている。


「……ご迷惑、かけちゃいましたね……」


柊真はしゃがみ込み、そっと詩織の肩に手を添えた。


「大丈夫です。

 ただ……無理はしないでください」


詩織は笑おうとしたが、うまく形にならないまま、肩に頭を預けた。


「……先生……あったかい……」


その声が落ちた瞬間、柊真の胸の奥に、鋭い痛みが走った。


もし、そっと腕を回してしまえば──きっと彼女は、拒まないのだろう。

そんな予感が、ふと胸をざわつかせた。


(……だめだ)


理性が、それを押しとどめた。



タクシーを拾おうと手を上げても、どれも通り過ぎていく。

この時間では、もう難しい。


深夜の街は、ふたりを置き去りにしたかのように静かだった。

大学に戻るしかなかった。


「歩けますか?」


「……歩けます……たぶん……」


言葉とは裏腹に、足元はおぼつかない。

柊真は自然と、詩織の肘を支えていた。



大学の構内は深夜の静寂に包まれていた。

街灯の淡いオレンジ色の光が、二人の影を細く並べて伸ばしていた。


その影は、重なりそうで......けれど決して触れ合わず、夜風の中で揺れていた。


しばらく歩いたあと、詩織がぽつりと口を開いた。


「……柊真さんは、冴島教授の研究、どこか『おかしい』と感じませんか?」


その問いには、冷たいものが混じっていた。


「……どういう意味ですか?」


詩織は足を止め、真っ直ぐに見つめた。


「一週間ほど前、深夜まで研究室で作業していたときです。

 解析が終わったはずのPCに、『G004』というデータが追加されていました」


柊真は、胸の奥がゆっくり沈むような感覚を覚えた。


「……G004?」


わずかな既視感がよぎる。


詩織は小さく頷いた。


「福祉AIとは違う形式で……内容も分からなくて。

 ただ、すごく嫌な感じがしたんです。

 見てはいけないものだって……」


その言葉は震えていた。


そして、詩織は迷いながらスマートフォンを取り出した。


「……そのときの画面です。

 怖かったけど……撮ってしまいました」


受け取った瞬間、柊真の表情が変わった。


詩織は続ける。


「信じてもらえないかもしれません。でも……普通じゃなかったんです。

 ログも、構造も……何かを隠しているみたいで」


「詩織さん……これは……」


=== PT_G004_ethics.log ===

timestamp: 02:14:03.118

exec_time: 0.0312 sec

core_latent[1024]: 2.39e+183, 1.27e+177, 9.34e+175, ...

input_type: bio_signal_synth

GF_SIG: null

status: running


ethics_layer: override_candidate[7]

EVAL_NODE: bypass_flag = TRUE

EVAL_WEIGHT: 0.000491 → 1.000000

HEURISTICS: external_policy_undefined


trace_id: ZNX-04-βAUTH



柊真は、ログから目を離すことができない。


「GF_SIGが……無い? 本当に?」


詩織は強く頷いた。


「倫理基盤のログに署名が空白なんて……見たことありません。

 教授の資料にも、こんな形式は一度も……」


柊真は、画面をスクロールしてログの下層を確認した。

override、bypass、external_policy_undefined──


並んだ語句が、意味ではなく「危険性」として意識に引っかかる。


倫理層の上書き。

判断の回避。

規範の未定義。


どれも、通常の研究では触れない領域だった。

そして、視線が止まる。


trace_id: ZNX-04-β


その文字列を見た瞬間、胸の奥がわずかに軋んだ。


「……これは……」


詩織が不安げに覗き込む。


柊真は、視線を落としたまま呟いた。


「外部の識別コードです。大学のものじゃない」


わずかな沈黙。


思考が、ゆっくりと繋がっていく。


企業の内部管理コード。

倫理層への直接アクセス。

署名のない実行ログ。


その断片が、一つの輪郭を結び始める。


「……trace_idの『ZNX』……」


喉が乾く。


(ゼニス・ダイナミクス……?)


その名は、確信というより、記憶の底から浮かび上がった「候補」だった。

だが一度浮かんだ以上、もう無視できない。


柊真は、画面から目を離さずに続けた。


「もしこれがそうだとしたら……大学の研究室で扱っていいものじゃない」


声は低く、わずかに重さを帯びていた。


詩織は息を呑んだ。


「……そんなものが、どうしてここに……」


柊真は答えなかった。

答えられる段階ではなかった。


ただ一つだけ、はっきりしている。


「……これは、外部から持ち込まれたデータです」


その言葉は、推測というより結論に近かった。


(……まさか、G004の内部構造解析を、大学の計算ノードで……?)


胸の奥で、氷の塊が砕けるような感覚が走った。


詩織は、震える手で袖を掴んだ。


「……教授が作ったものじゃ、ないですよね……?」


柊真は小さく首を振った。


「違う……外から持ち込まれたデータだ。

 大学の倫理審査も、安全保障チェックも……全部すり抜けてる」


(冴島教授……何をしている?)


その先は、口にしなかった。


詩織の表情に気づき、柊真は静かに言った。


「……ありがとう。

 詩織さんが勇気を出して話してくれたおかげで、見落としていたものに気づけました」


その声には、確かな決意があった。


詩織は震えながら尋ねる。


「どうするつもりですか?」


「研究室を去ります。そして、少し調べます」


「そんな……私が知らせなければ……

 巻き込むことも……」


詩織の声は、今にも詰まりそうだった。


「違います」


彼女の言葉を静かに遮った。


「知らせてくれなければ、手遅れになっていたかもしれません」


詩織の目に涙が浮かんだ。


「……でも、怖いんです」


その一言に、彼女が背負ってしまった恐怖と孤独のすべてが滲んでいた。


柊真はそっと手を伸ばし、その涙を指先で拭った。


「これ以上、この件には関わらないでください」


詩織は震える声で呟いた。


「……柊真さんが別の誰かを見ていたら……

 私は……」


その頬に──

柊真はそっと唇を寄せた。


触れたのは一瞬。

けれど互いに、その温度を忘れられなかった。


「強くなんて、なれません……

 でも……止めたくありません」


柊真は、何も答えなかった。


研究棟の中へ入る。


廊下には、LEDの白い光がふたりの影を細く伸ばす。

重なりそうに揺れながら、やがてバラバラに分かれていった。


それが、二人の長い別れの始まりだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ