5話 署名のないデータ
夜の情報工学棟──
その日の詩織は、いつになく焦っていた。
冴島教授から依頼された解析データの整理が、どうしても終わらなかったのだ。
研究棟の外はすでに真っ暗で、窓に映る自分の姿だけが、薄暗い照明の中で白くぼんやり浮かんでいる。
「……どうしよう。今日中にって言われてたのに」
時計を見ると、すでに二十二時を回っていた。
教授も学生たちも帰り、研究室は静寂そのものだった。
腹の虫が鳴り、詩織は小さく息をついた。
「ごめんなさい……ちょっとだけ休憩」
カードキーで扉を開け、コンビニへ向かう。
サンドイッチと温かいスープを買い、すぐに戻った。
深夜の研究棟は、さらに静かだった。
照明は最低限の明るさに落とされ、白い床に落ちる影だけが細く伸びていた。
詩織は扉を開け、薄暗い部屋へそっと戻る。
機械学習に用いられるPCはまだ動いていた。
ファンの回転音が、深夜の冷えた空気にうっすら混じっている。
椅子に座り直し、手際よく残りの資料をまとめ、最後のフォルダを閉じた。
「……終わった。よかったぁ」
ほっと息をついてコートを羽織った、そのときだった。
PC画面の右下に、通知がぴたりと現れた。
《解析完了:新規データを保存しました》
「……え?」
帰りかけた肩が、わずかに落ちた。
「追加……データ?」
教授は帰っている。
誰も触っていない。
それでも、解析は続いていたらしい。
詩織は、迷いながらフォルダを開いた。
一つだけ増えているファイル。
『G004_log_XX-XX-XX.dat』
「……G004?」
見覚えがない名称だった。
福祉AIプロジェクトのどの資料にも存在しない。
少し考え、詩織はそのデータを開く。
=== PT_G004_ethics.log ===
timestamp: 02:14:03.118
exec_time: 0.0312 sec
core_latent[1024]: 2.39e+183, 1.27e+177, 9.34e+175, ...
input_type: bio_signal_synth
GF_SIG: null
status: running
……
「……これ、何……?」
最初に目に入ったのは、異様に短い演算時間だった。
研究室の計算ノードでは、あり得ない値。
次に、生体信号に近い入力形式。
そして──
署名欄が『空白』になっている。
倫理基盤システムのファイルには、必ず GF の電子署名が付与される。
それは、研究員なら誰もが知っている前提だった。
(……署名が、ない?)
指先が、じんと冷えた。
ほんの数秒見ただけで、背筋に冷たいものが這い上がる。
これは、研究室の仕事じゃない。
大学が扱っていい種類のデータではない。
(……見てはいけないものだ)
そう思った瞬間、胸の奥が静かに沈んだ。
理解できるだけの知識はない。
それでも、『福祉AIのものではない』という感覚だけが、はっきりと残った。
詩織はスマホを取り出し、震える手で画面を撮影した。
カシャ……シャッター音が、深夜の静寂に鋭く響く。
「……どうしよう……これ……」
冴島教授には聞けない。
では、誰に。
(……柊真さんなら)
その名を思い浮かべた瞬間、胸の奥にわずかな熱が灯る。
そのとき。
コン、コン。
突然ドアが叩かれた。
「……っ!」
詩織は跳ねるように立ち上がる。
抱えていた荷物が落ち、書類が床に散らばった。
ドアが開き、見回りの警備員が顔を出す。
「学生さん? もう閉めますよ。遅くまで大変だね」
「あ……はい……す、すみません」
全身の力が抜け、膝がわずかに震えていた。
詩織は慌てて荷物をかき集め、PCを閉じた。
最後にもう一度だけ、フォルダの「G004」の文字を見つめる。
もう、その静けさは優しくなかった。
肩をすくめるようにして部屋を出る。
帰りの廊下には、LEDライトが白く光り、詩織の影を細く引き伸ばしていた。
その影は、何かから逃げるように揺れながら、研究棟の出口へと消えていった。




