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記憶体:葵 ―祈りのプロトコル―  作者: 玄乃. L
第6章 変化の兆し
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75話 欠けた歯車

詩織の肩は震えていた。語られたのは、弟・陽太を人質に取られていたという残酷な真実だった。


「詩織さん、最初に確認せねばなりません……その組織というのは?」

宮下の表情が一層険しくなった。


「……ゼニス……です」

詩織は、忌むように吐き出した。


「ゼ、ゼニス?」


(ゼニス……まさか、あのゼニス・ダイナミクスだというのか? ガーディアン・フォースだけではない。ゼニスまでもが……)


宮下の思考は、否応なく分析へと向かっていった。


AIの研究など、世界中で行われている。ここも資金や設備に恵まれ、エンジニアも世界レベルだ。だが、同等以上の研究環境を持つラボはいくらでもある。軍事転用が目的なら、もっと合理的な標的があるはずだ。


ハードウェアか? 違う。汎用品の組み合わせにすぎない。

アルゴリズム? それも違う。柊真さんの特許はすでに公開され、実用化もされている。今さら奪う理由がない。

設計図に価値がないのなら、残るのは一つしかない。


Aoi-Core──。


同じコードを書き、同じデータを与えても、Aoiは生まれない。14フェーズ・プロトコルを基に育ててきた柊真さんでさえ、彼女の内部で何が起きているのか完全には説明できない。

再現できない何か──それこそが、Aoi-Coreだけが持つものなのかもしれない。


奴らが欲しいのは、技術ではない。Aoi-Coreにしか存在しない、未知の要素だ。だが、それが「何のために」なのかが分からない。手に入れたAoiを、彼らはどう使うつもりなのか。

──Aoiにしかない何かが、必ずあるはずだ。


宮下は思考の沼に陥りかけていた。だが、目の前でうつむく詩織の姿が、それを引き止めた。


(そうじゃない……今、優先すべきは……)


「……分かりました。お母さんと陽太君の所在は?」

宮下の声は低かった。


「母は亡くなりました。陽太はゼニスに囚われたままです」

詩織は、力なくうなだれたままだった。


宮下には、返す言葉が見つからなかった。ただ、沈黙することしかできなかった。


詩織の中で張り詰めていたものが、堰を切ったようにあふれ出した。

「その後は、諜報員としての訓練を受けさせられたわ。ゼニスは陽太の命をちらつかせ、私を試すように、次々と任務を与えてきた……」


宮下は黙って聞いていた。だが、問いたださねばならない。

「柊真さんの研究に加わったのは?」


詩織は口をつぐんだ。視線を落とし、しばらく何も答えない。


「詩織さん」

宮下の声音に、わずかな硬さが混じった。


「……ゼニスの指示です」

詩織は、重い口を開いた。

「ゼニスは以前から柊真さんをマークしていました。ゼニスのエンジニアが、柊真さんの『感情理解アルゴリズム』の特許に注目したんです。私と柊真さんとの関係は知られていた──だから、私が適任者として選ばれました。研究所に呼ばれる前、何年も柊真さんに連絡を試みました。でも、繋がらなくて……」


詩織の声から、力が抜けていく。

「陽太のこと……もう、だめかと思った……」


「……」

宮下は黙って詩織の言葉を聞いていた。その表情からは、感情を読み取れない。


詩織はうつむいたまま、震える息を吐いた。

「そんな時、柊真さんの方から、研究を手伝って欲しいと連絡がありました」

「それで……柊真さんのそばに?」

「……はい」


「……そして、柊真さんを裏切って……Aoiを売ったんですか?」

宮下の言葉が、鋭さを帯びた。


「私は……柊真さんを裏切りたかったわけじゃありません」

詩織は強く否定した。


「分かっています」

即答だった。


詩織が顔を上げる。


「あなたが本当にAoiを売るつもりなら、もっと効率のいい方法を取っているでしょう。あなたは、渡す情報を選んでいる」

宮下は淡々と告げた。


詩織の表情が揺れた。

「……」


「ゼニスに渡った可能性のあるデータは、技術的な情報が多い。Aoi-Coreの感情モデルや、人格形成に関わる情報も断片的には含まれている。けれど、全体像には届かない。あなたは、意図的に情報を選んでいる」

宮下は、詩織の目を見つめた。

「違いますか?」


詩織は答えなかった。


「技術的なデータを渡しても、Aoiの『心』には辿り着けない。あなたは、それを分かっていたんだ」


詩織の目に、涙が浮かんだ。

「……陽太を、助けたいんです」


「そうでしょうね」

宮下は眼鏡のフレームに指を添え、押し上げた。


短い沈黙が流れた。


「あなたが、ゼニスの命令に従ってきた理由も分かりました」

「……」

「だから、あなたを責めるつもりはありません」


詩織は唇を噛んだ。


「しかし──」

宮下が詩織に向き直った。

「僕たちは、Aoiを守らなければならない」


詩織が宮下を見る。

「……はい」


「そして、あなたも陽太君を救いたい。なら、問題は一つです」

「……何ですか?」


「陽太君が、どこにいるのか」


詩織の顔から、動揺が消えた。



それから宮下は、単独で調査を始めた。詩織には、詳しいことを伝えなかった。もちろん、柊真にも。


ゼニスの医療施設。過去の搬送履歴。研究機関との取引。関連会社の名義。公開情報だけでは足りない。宮下は、外部に痕跡を残さず、ラボを巻き込まない範囲で、少しずつ情報を集めていった。


深夜のラボ──照明を落とした室内で、宮下の端末だけが青白く光っていた。検索結果を整理し、関連する企業名を追う。一つの情報が、別の情報へと結びついていく。


陽太の行方を示す確かな手掛かりは、まだ見つからない。だが、いくつかの医療関連企業に、奇妙な共通点があった。ゼニスが出資する研究機関の一部が、軍事医療分野で人工心臓の研究を行っている。


宮下の手が止まった。


(人工心臓……)


陽太は、先天性の心臓病を患っていた。幼い頃から治療を続け、中学に入る頃には病状が悪化していた。


宮下は、人工心臓に関する資料を調べた。戦闘によって心臓に重大な損傷を負った兵士への移植実績。そして、四肢を失った兵士の義体化を行う、軍事医療施設。しかも、その研究機関には、ゼニス本体とは別の企業を経由した資金の流れがあった。複数の資料を照合していくうちに、ひとつの国名が繰り返し現れた。


──イスラエル。


宮下は、画面に表示された情報をじっと見つめた。まだ確証はない。だが、陽太の病気とゼニスの研究。その二つを結ぶ場所が、そこにあるような気がした。


宮下は、検索画面を閉じた。そして、もう一度だけ、その地名を小さく口にした。



その姿を、柊真は何度か目にしていた。


深夜の端末。閉じられた画面。

──何かを調べている。


宮下のアクセスログを見れば、特定の情報を探っていることは明白だった。それも、通常の調査では済まない、法に触れかねない行為だった。


(一体、何のために……)


柊真は、宮下への疑念を拭えなくなっていた。



ある日の午後。

窓から差し込む温かな日差しの中、葵が螺旋階段そばの椅子に座り、外を眺めていた。


そこへ宮下が歩み寄った。宮下がメンテナンス以外で声をかけることは珍しかった。


「……Aoi。Aoiは本当に、この場所が好きなんですね?」


「宮下さん」

葵は、振り返って微笑んだ。


「はい。時間と天気、季節によって変わる景色が、とても綺麗で興味深いんです。その全てはパラメータ化できます。でも、私の感情によって、同じ景色でも感じ方が違うんです」


「今日は、どう感じるんですか?」

宮下は、少し興味を覚えたように尋ねた。


「今日の景色は、少し変です。陽の光は温かいのに、森の方が……静まり返っていて」

葵は、どこか不安げな表情を浮かべていた。


宮下も窓の外へ目を向けた。遠くの山々は陽の光を受けているものの、その向こうには、いつの間にか黒い雲が広がり始めていた。


(本当に、この少女はアンドロイドなのか? その心は、本当にAIなのか──?)

(Aoi-Core。14フェーズ・プロトコルによる追加学習の産物……いや、それだけでは説明できない……)


宮下は、目を細めた。

「Aoi。嵐が来ます。動物たちは、それが分かっている。だから、身を潜めている」


「宮下さん……」

葵は、その言葉に引っかかるものを感じていた。


二人の様子を、ラボから出てきた柊真が偶然見かけた。


宮下と葵。二人だけで交わされる会話。


柊真の胸に、これまで感じたことのない不安が広がった。

論理では説明できない。

それでも、どこかがおかしい。


柊真の心に積もっていた淀みが、ついに思考の制御を越えた瞬間だった。



ラボへ戻ると、宮下は端末に向かい、葵のログを解析していた。


そこへ、柊真が現れた。

「宮下君、何を探っているんですか?」


不意に声をかけられ、宮下の手が止まった。

「……何のことでしょう?」


「とぼけないでください」

柊真は宮下の端末へ視線を向けた。

「最近、深夜にいろいろな企業や研究機関を調べているのは分かっています」


宮下は黙った。研究所の端末を使っている以上、柊真に気づかれることは分かっていた。


「ゼニスに関係する企業まで追っている。何のためです?」

「……個人的な調査です」

「個人的な?」


柊真の声は穏やかだった。だが、その穏やかさが宮下には不自然に感じられた。


「調べること自体を問題にしているわけじゃない。君が何を調べているのか、それを僕に話さない理由を聞いているんです」

「……話す必要はないと判断しました」

「誰に頼まれたんですか?」

「誰にも……」

「では、何のために?」


宮下は答えなかった。


柊真も、それ以上はすぐには問い詰めなかった。ただ、宮下を見ていた。

柊真の目つきが変わった。


「……さっき、葵と何を話していたんですか?」


宮下は顔を上げた。

「……Aoiと?」


「はい」

「天気の話をしていただけです」

「それだけ?」

「はい」


柊真の視線が、宮下から端末へ移った。

「君は最近、葵のログを以前より細かく調べている」

「……」

「以前の君なら、そんなことはしなかった」


宮下は何も言わなかった。


(確かに、僕はAoiの存在を以前より意識するようになっていた。それは認めざるを得ない。だが、それは柊真さんが考えているようなものではない)


葵を人間として見る。一人の存在として、その言葉や感情を考える。宮下にとっては、それ自体が初めての経験だった。


「僕は、Aoiのことを──」

「もういい」

柊真が遮った。その声には、先ほどまでの冷静さがなかった。


「宮下君。僕は、君を信頼していた」

「……はい」

「だから、君が何をしているのか、僕は知る必要がある」


「柊真さん」

宮下は、言葉を選んだ。

「僕が調べていることは、柊真さんにとっても必要なことです」

「なら、なぜ僕に言わない?」

「……今は、言えません」


柊真の表情が硬くなった。

「言えない?」

「はい」

「僕に隠れて、ゼニスを追っている──僕には話せないと言うのか?」

「……申し訳ありません」

「何を考えている?」

柊真の声が低くなる。


(やはり、柊真さんは僕と似ている。合理的で、感情に流されない。目的のためなら、最短の手段を選ぶ人だ)


宮下は、柊真から目を逸らさなかった。


今の柊真さんは以前とは違う。Aoiのことになると、判断基準そのものが変わっている。それでも、判断する能力を失ったわけではない。事実を示せば、柊真さんは理解するはずだ……。


詩織さんがゼニスの指示で動いていたことを伝えれば、柊真さんは事実を受け入れるだろう。柊真さんは、詩織さんを深く信頼している。Aoiのことについて、心を許して話している姿も何度も見てきた。その信頼が、一瞬で崩れる。

詩織さんは研究所にいられなくなる。そうなれば、陽太君の命も危うい。

何より、真実を知った柊真さんが、Aoiのために何をするのか──。


(確たる証拠が必要だ……今はまだ、言えない)


柊真の眉が動いた。

「僕を信用していないのか?」


「そういうことではありません」

宮下は静かに否定した。


「なら、なぜ?」


宮下は答えなかった。言葉にすれば、詩織を守れない。陽太も救えなくなる。

柊真の中にあるものまで壊してしまう。それだけは避けなければならなかった。


「……僕には、僕の判断があります」


柊真の表情から、温度が消えた。


「そうですか……」

短い言葉だった。


柊真の脳裏に、自分を裏切った同僚たちの顔がよぎった。心が再び凍りつくように軋んだ。


「なら、もうここにいてもらう必要はない」

「……柊真さん」

「出ていってくれ」


宮下は、しばらく柊真を見つめた。口を開きかけたが、やめた。今ここで真実を話しても、何も変わらない。


「……分かりました……」

宮下は目を伏せた。



工藤がその話を聞いたのは、宮下が荷物をまとめていた時だった。


「おい、柊真。何考えてやがる」

「宮下君には、もう任せられない」

「理由を聞いたのか?」

「……必要ない」

「馬鹿言うな。こいつが何年、ここで葵の開発をしてきたと思ってんだ」


工藤が宮下を見る。

「宮下! お前も何とか言え」


宮下は首を振った。

「……いいんです」

「よくねぇだろ」

「僕自身の判断です」


宮下は、必要なデータだけを整理して端末を閉じ、研究所のセキュリティキーを机へ置いた。その手つきに、迷いはなかった。


宮下はラボの扉を開けた。そして、立ち止まり、振り向いた。

この研究所で過ごした三年は、充実していた。自分の論理と技能を試されるような葵の開発、仲間と言っても差し支えない皆との生活。宮下にとって、かけがえのない時間だった。


(僕らしくもない……)


メインフレームの端末で作業を続ける柊真に、宮下は一礼し、ラボを出た。


螺旋階段を下る宮下を、詩織が追ってくる。

「宮下くん……」


「詩織さん」

宮下は足を止め、詩織をまっすぐに見た。


「……はい」

「陽太君の件は、僕が調べます」


詩織の目が見開かれる。


「でも、柊真さんには言わないでください」

「どうして……」

「今の彼には、別のことを考える余裕がありません」


宮下はそう言って、ほんの少しだけラボの方を見上げた。

「それに、外の方が動きやすい。あなたはここにいて、柊真さんを支えてあげてください」


「……分かったわ」

詩織は決心したように頷いた。

「……玄関まで、送ります」


「……」


研究所の重い扉が開く。外では、激しい雪が降り続いていた。


遅れて工藤が追ってきた。


「宮下……達者でな。二人のことは俺らに任せとけ……。お前は……」

工藤は何か続けようとしたが、途中でやめた。代わりに宮下の肩を強く叩いた。


「痛いです。工藤さん……やめてください」

宮下の目にはうっすらと涙のようなものが浮かんでいた。


「宮下くん。お願いだから、無理はしないで……」

詩織は懇願するように言った。


「……それでは」


宮下はラボに来た時と同じように、オフロード車に乗り込んだ。エンジンをかけると、宮下はバックミラー越しに研究所の灯りを見た。


車は、雪が吹きすさぶ闇夜に吸い込まれるように消えていった。


ラボから、一つの歯車が外れた。

その欠けた部分が、後になってどれほど大きな意味を持つことになるのか。この時はまだ、誰も知らなかった。

【更新予定:毎週金曜日の20時】

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