74話 忘れられない過去
──詩織が景翠大学の学生だった頃のことだ。
詩織は深夜の研究室で、解析用PCに残されていた正体不明のデータの存在を偶然知った。彼女はそのデータを柊真に見せた。柊真はそれを調べるため、自ら大学を去る。その数日後、詩織は冴島教授から呼び出された。
「君、彼と親しかったろう? なにか聞いていないか?」
教授の口調は穏やかだったが、その奥には明らかな疑念が滲んでいた。二人の距離の近さは、研究室でも噂になっていた。
「私……何も聞いていません」
詩織は視線を逸らした。その一瞬の沈黙とわずかな表情の揺らぎを、冴島は鋭く捉えた。
それからしばらくの間、冴島は落ち着かない様子だった。何人かの学生が教授室へ呼び出された。冴島は次第にやつれ、教授室を空けることが多くなっていった。詩織が冴島からの追及を受けたのもその一度きりだった。
一か月が過ぎる頃には、研究室は静かな日常に戻っていた。それまで耳にすることもなかった冴島への不満が、学生たちの口から漏れ始めた。
「冴島教授からの解析依頼は、自分の研究テーマと関係がなかった」
「教授がAIサーバーを使っているから、解析に使えなかった」
「今のほうが研究がスムーズだ」
冴島がいなくなったところで、自分の研究に支障はなかった。指導教官としての役割を除けば、研究そのものへの影響はほとんどなかったのだ。
詩織は研究室の近況を伝えようと、柊真に連絡を試みたが、電話にも出ず、メールにも返信がなかった。
正体不明のデータの調査に、思った以上に時間を取られているのだろう。詩織の身を案じ、余計なことに巻き込みたくないのかもしれない。そう自分に言い聞かせていた。
数週間後、突然、冴島教授の訃報が研究室のグループウェアに届いた。
研究内容の秘匿を理由に、研究室は即日閉鎖され、所属する学生たちの私物PCやスマートフォンまで回収された。代替品として最新機器が提供されたため、大きな騒動にはならなかったが、異様な措置だった。
「俺、この機種欲しかったんだー」
学食のボックス席に、冴島研究室の学生たちが集まっていた。
「私の大切な写真、どうしてくれんのよ!」
「バックアップしとけって」
「はぁ? 私が悪いっての?」
詩織の耳には、彼らの話など入っては来なかった。
「詩織? 顔色悪いよ。大丈夫?」
(柊真さんとの連絡履歴。あの夜に撮ってしまったG004のログデータ……)
詩織の震える手には、真新しいスマートフォンが握られていた。
冴島の訃報から一か月も経たないうちに、冴島研究室があった場所には、別の研究室が入った。外部研究員たちはそれぞれの所属先へ戻り、学生たちは他の研究室へと再配置された。
詩織は、あの日の自分の行動が、この結末を招いた一因だったのではないかと、重い後悔と罪の意識に苛まれていた。柊真からの連絡はない。冴島教授は死んだ。研究室も、あの日の記録も、すべて消えてしまった。それでも、詩織には何が起きたのか分からなかった。考えれば考えるほど、不安が膨らんでいく。けれど、それを誰かに話すこともできなかった。
その不安を振り払うように、詩織は研究に打ち込み、忙しい日々を送っていた。新しい研究室でも、その有能さを遺憾なく発揮した。
ある日、詩織は研究室で親しくなった後輩の女子学生と、昼食を買いに売店へ向かった。
「詩織さん、冴島研にいたんですよね?」
「……ええ、そうです」
「そうなんだ。じゃあ、いろいろ大変だったんじゃないですか?」
詩織の浮かない表情を見て、後輩は少し言葉を選んだ。
「うちの教授が、冴島研から来た人には何も聞かないほうがいいって言ってました」
「……そうなんですか」
後輩は話題を変えた。
「詩織さん、彼氏とかいないんですか?」
「えっ? ……いませんよ」
詩織が少し間を置いて微笑むと、後輩が茶化すように言った。
「その表情! 隠してもムダですよ。絶対いますね~!」
詩織の脳裏に、柊真の柔らかな笑顔と優しい声がよぎった。
「いいなあ。詩織さん、研究室の男どもからも人気があるんですよ!」
「そんなことないです……。私なんて、どこにでもいる地味な理系女子です」
それが、詩織の本心だった。
後輩は、からかうように詩織をまじまじと見た。
「眼鏡にショートボブ、ちっちゃいのにグラマー。うちみたいな、お硬い男子には刺さるんですよ!」
「は……はは……」
乾いた笑いを浮かべる詩織。
(柊真さんは、私に魅力を感じていたのかな……)
詩織は、そんな思いを胸に抱いていた。
新しい研究室での生活は充実していた。数か月前の暗い出来事を忘れようとするかのように、詩織は懸命に日々を過ごしていた。
「自分のため、田舎で一人暮らす母のため、そして柊真さんのためにも頑張ろう」
そう決意を新たにしていた。
ところが、卒業まであと数か月というところで、詩織は大学を辞めることを決めた。
十人近くいた旧冴島研究室の学生のうち、半数ほどが大学を辞めていたことを知ったからだ。自分は気持ちを切り替え、頑張っている。しかし、あのような状況の中で、新しい研究室になじめず、大学を去っていった者も多くいた。
あの夜の自分の行動が、自分だけでなく、周囲の人々まで巻き込み、現在の状況を招いてしまったという事実。詩織は再び、激しい後悔に苛まれた。
詩織は実家の母に電話をかけた。
「──母さん。もう辞めようと思うの。何かが壊れてしまった気がして……」
母は、静かに詩織の言葉を受け止めた。
「詩織が決めたことなら、帰ってきてもいいんだよ」
涙をこらえながら、詩織は頷いた。
それから数日間、詩織は悩んだ末、内定していた企業へ、辞退の連絡をした。大学へは退学届を提出し、引っ越しの準備を進めていた。
翌日に引っ越しを控えた夜。
部屋の中は、家財道具のほとんどが段ボールに収まり、がらんとしていた。詩織は、遅い夕食を買うため、近くのコンビニへ出かけた。
「お母さん、元気かな。あんなに応援してくれたのに……」
星がほとんど見えない都会の空。詩織は、田舎の綺麗な星空を思い浮かべた。
「まあ、仕方がないかなぁ。庭の林檎の樹。たくさん、実ってるころだろうな……楽しみ……」
詩織の目から、涙がこぼれ落ちた。
アパートまで、あと数十メートル。
まばらな街灯の下、コンビニ袋の影が揺れている。
そのときだった。前方から、強烈な光が詩織を照らした。
「……え?」
思わず目を細める。
黒いワンボックスが、ハイビームのまま、まっすぐ詩織へ向かってくる。
──キキキィッ!
タイヤが路面を激しく擦り、ワンボックスが詩織の目の前で急停止した。
スライドドアが開く。数人の男性が、一斉に飛び出してきた。
詩織は抵抗する間もなく、黒いワンボックスに押し込められた。
「出せ」という短い合図とともに、ワンボックスが走り出す。
男たちは素早く詩織に猿轡を噛ませ、頭に黒い布を被せた。すでに手足を拘束され、身動きが取れない。
──すべてが、十秒にも満たない時間の出来事だった。
抵抗しようとした、その次の瞬間、脇腹に激しい電気ショックが走った。
詩織は、意識を失った。
(柊真さん……)
薄れゆく意識の中、一瞬だけ、研究室で微笑む柊真の顔が浮かんだ。
*
誰かに頬を叩かれた。
「……うぅ……」
詩織は、ゆっくりと目を開いた。
両手を後ろに縛られ、足と身体を椅子に固定されていた。
「君、乱暴な真似はやめたまえ」
薄暗い室内は、ひんやりとしている。数メートルほど離れた正面には机が置かれ、その向こうに、黒いサングラスと黒いスーツの男が座っていた。
男は、感情のない声で尋ねる。
「名前は、『木佐詩織』君で良いのかな?」
詩織は答えなかった。ささやかな抵抗だった。
「まあ、いいだろう。この男を知っているか?」
男は、数枚の写真を詩織の足元に投げた。そこには、柊真が写っていた。
「いいえ。知りません」
詩織は平静を装った。
「そうか、知らないか。では、これならどうだ?」
男が合図を送る。
別の男に連れられて入ってきたのは、詩織の母だった。
「お母さん!!」
虚ろな表情の母。反応はなかった。
詩織は椅子から立ち上がろうとする。だが、拘束具が手足を締め上げる。
「お母さん、お母さん!」
詩織は何度も呼び続けた。だが、母は反応しない。
「母さんに、何をした。何をしたんだ!!」
普段では絶対に見せない、凄まじい顔つきで、詩織は男たちを問い詰めた。詩織の足首と手首からは、血が流れていた。
「君の母は、強情でね」
「母さん! 母さん! 母さん……」
なおも呼び続ける詩織。声も枯れ始め、母を呼ぶ声は、徐々に小さくなっていく。
「どうすればいい。何をすれば、母を自由にしてくれる!」
「やはり、君は資料にあるように、賢い女性のようだ」
数十枚にも及ぶレポートや詩織の写真、同じ研究室のメンバーや柊真の写真が、床一面にばらまかれていた。
「君が、この柊真という男と親密な仲であることは知っている。彼がいると都合が悪い。しかし、彼の論文や研究内容は非常に興味深い。彼とコンタクトをとれ」
詩織は床に散らばった柊真の写真を見つめた。
抵抗することが、一瞬、頭をよぎった。しかし、母の安全──母の命が最優先だと、詩織は結論づけた。
「わかったわ。母の安全と命を保証して」
「やはり、君は賢い……」
男が再び合図を送る。
詩織の拘束が解かれた。
母に駆け寄り、怪我はないか、乱暴なことをされていないかを確認する。怪我はない。少しだけ、ホッとする詩織。
その様子を見ていた男は、口元に薄い笑みを浮かべた。
「われわれは、紳士的な対応を心がけているんでね」
詩織は──キッと、その笑みを睨み返した。
「!! 陽太……、陽太は無事なの?」
詩織の脳裏に、陽太の顔が浮かんだ。
同じ時刻。
陽太が入院する病院へも、黒いワンボックスが向かっていた。
【更新予定:毎週金曜日の20時】




